ライヴは命を削るもの。血や内臓を見せずに、血や内臓を見せること。 ~2017/9/18 大森靖子生誕祭感想~
ライヴは命を削るもの。
大森靖子を観てそう思った。
「めちゃめちゃ生きてるよ」ってことを見せること。
血や内臓を見せずに、血や内臓を見せること。
彼女が、(27歳以前のある時点まで)「27歳で死ぬ」って思ってた、と言ったことも腑に落ちた。
命の消耗の仕方が本当にすごいんだと思う。
普通に考えて、2時間歌いっぱなしでギア全開なのって「どんだけ体力あるの?!」って思うし、そしてその歌は全て生きる死ぬの話をしてるのだ。
ライヴをやると分かるけど、ライヴって超消耗するんですよ。「これ否定されたら死ぬ」っていうものを、丸出しにするんで。精神の消耗がすごい。
でもその分、肯定された時のリターンもすごいんだけどね。
昨日の対バンでもあった、ジョニー大蔵大臣が、確か数年前に大森靖子と高円寺円盤に出た時、
「せいこちゃん、昔はもっと、ライヴの出来の良し悪しの波がすごかったよね。10回に1回くらいしかまともなライヴしなかったよね」みたいなことを言っていた(うろ覚えだ)。
私が観始めた頃、確か6年前も、まあ2回に1回はアレかな、くらいのブレはあった。
それからさらに時は経ち、近頃の彼女のライヴの安定性とクオリティはものすごい。
7月のZepp DiverCity(TOKYO)が珠玉の出来だったが、それはまあさすがにツアーファイナルだもんな、みたいに思ってたんだが、まさか昨日も同じクオリティもってくるとは。もうこれがデフォルトなんだろうか。
月に何度もライヴのある彼女が、月に何度もこれをやってるとしたら、本当に、命の削れ具合が半端ないと思う。
終演後、わけもなく落ち込んで、あと、4時間立ってたのがつらくて歩けず、ライヴハウスのそばのサイゼリアでだらだらと「大森靖子」でツイッター検索してた。数日前の騒動のことはもうほとんどひっかからず、今日の感想ツイートばかりで、大森靖子すごかったとか愛してるとか最高とか泣いたとかおめでとうばかりだった。
見た人の発言が、見てない人の発言をちゃんと凌駕してた。正しいツイッターランドに戻っていた。
みんな、全然私よりすごい感想書いてるな、と思った。文字を書くことにかなりの修練を積んでる私が驚く表現力を持っていた(いつも思うが、大森靖子ファンが大森靖子に言及するときの文学性ってものすごい)。
みんな私より良く見て、吸収して、ちゃんと感動してるなと思った。
私は2時間のライヴで集中できず、多くの事を取りこぼしてしまう。
暑いし(皆前方に押し寄せてくるから3列目を確保していた私のあたりは密度がすごかった)、足痛いし、人の頭をかきわけて見ようとする作業に疲れてしまった。
いや、大森靖子が怖くて、集中から逃げていた。
私は実は、私自身からも逃げている。
自分のライヴ中も「いいや、分かってもらえなくても」って妥協して安全運転したり、やたら分かりやすい方にオチをつけてしまったり、自らカッコ笑いをつけてしまう。
あるいは動画再生モード(目の前の客を無視して自分の世界に入る)になる。
今のところ、ガチでやってることを他人に笑われるとマジでむかつくことが分かっている。
ただ、私は、本当に、笑われるに足るほど、滑稽らしい。
2016年5月、詩の朗読を始めた。詩の朗読会の客は何をしてもちゃんと聞いてくれるけど、基本的に演者同志で見合う場で外客がいないので、あまりに甘くて、不満だった。
2016年11月、楽器も持たない歌も歌わない私が一人でライヴハウスに立って、笑われまくるところからスタートした。
そもそも笑われてなんぼだった、のに、いつの間に「笑われるの嫌だ」になったのか。
「この人たちに分かられないと家に帰れないよ」という切実感が減った。なまじ何人かファンができてしまったから、「こいつらに分かられなくても別にいいや、分かってくれる人ほかにいるし」と思えるようになってしまった。
でも、そんな態度じゃいつまでたっても、あの、キャパ600の下北沢GARDENをパンパンにする、自分の事大好きな人間だけで自分の誕生日を埋めることなんてできない。
昨日の彼女が、男のバンドマンばかりのライヴハウスに女一人で弾き語りで出る孤独が分かる?! みたいなことを言っていた(ブログでも同様の事を言っていた)
それはめちゃめちゃ分かる。
でもまあ、どこにいても孤独なのだ。だったらちゃんと、孤独に降りようね。