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≪rayout Deep Stories No.1≫「俺たちの姉御」―与えることで輝き続ける、コミュニティの守護神

─ コミュニティの中心で、人と人を繋ぎ続ける

「誰かと誰かが繋がることで、新しい価値が生まれる。それを見るのが本当に嬉しいんです」

30分ほど話を聞いているうちに、田鍋さんの口から自然と出てきた言葉だ。他者を想う気持ちがにじみ出るその表情は、まさに「姉御」という言葉がぴったりとはまる。

生まれながらの"世話焼き"気質

「母親になって改めて気付いたんです。私、もともと母親気質だったんだなって」

6歳年上の兄を持つ末っ子として育った田鍋さん。一般的な末っ子のイメージとは異なり、幼い頃から人の面倒を見ることが好きだったという。小学校の縦割り活動では下級生の世話を率先して買って出て、親戚の赤ちゃんの相手をすることにも喜びを感じていた。筆者は生粋に末っ子気質のため、同じ末っ子として全く共感できなかった。

「子供なのに子供の面倒を見るのが好きで。なぜだったのかな...」と振り返る表情には、懐かしさと共に、自身のルーツを探る真摯さが垣間見える。

「実は、その背景には伝統的な価値観を重んじる家庭環境があった。特に父親の教育方針は厳格で、当時の社会では珍しくない、しつけを大切にする家庭の一つだった。そんな環境で培われた経験は、人の気持ちに寄り添える強みとなって、今に活きている。困っている人の心情をより深く理解できる共感力は、そんな幼少期の経験が源になっているのかもしれない」

姉御の兄貴と

コミュニティを支える存在へ

高校時代、田鍋さんは少林寺拳法部に所属する。ここで彼女は、単なる部員としてではなく、部の要として頭角を現していく。女子が大半を占める部活動の中で、部長の片腕として、特に揉め事の調整役として重要な役割を担っていった。

「関東大会で10年連続優勝という伝統があって、その重圧は想像以上でした。でも、先輩方の築き上げてきたものを守りたい。その想いが強かったですね」

大学時代には、大規模のオールラウンドサークルの運営の副部長として活躍。イベント企画から合宿の手配、学園祭の出店計画まで、現在の仕事に通じるプロジェクトマネジメントの基礎を、この時期に体得していった。

「みんなが思いつかないような企画をしたかった。でも、それは自分が目立ちたいわけじゃなくて。みんなで共有できる楽しさを作りたかったんです」

迷いの中で見つけた本当の自分

20代の田鍋さんは、一見すると回り道の連続だった。大手企業への就職、その後の退職、フリーター生活など、一般的なキャリアパスからは外れた経験を重ねていく。

「昼はコールセンター、夜は接客業。今思えば、かなりもったいないことをしていたかもしれません」と笑う。しかし、その経験は決して無駄ではなかった。

「人は人でしか磨かれない。本を読んだり、セミナーを受けたりするだけじゃダメなんです。人と関わることでしか、本当の成長はできない」

様々な境遇の人々と出会い、関係性を築いていく中で、田鍋さんは自身の本質に気付いていった。それは、人を繋ぎ、育てることへの pure な喜びだった。

"与えたい欲"という原動力

現在の田鍋さんを突き動かしているのは、彼女が「与えたい欲」と呼ぶものだ。採用イベントで出会った求職者の相談に真摯に向き合い、展示会で知り合った人とのご縁を大切にする。それは単なる親切心を超えた、彼女の本質的な欲求なのだという。

「自分だけが持っているものがもったいないんです。誰かに共有したい。そこから新しい価値が生まれるのを見るのが嬉しい」

その姿勢は、時として周囲から「お節介」と思われることもある。しかし、「それをやめろと言われたら、むしろイラつくかも」と笑う様子からは、これが彼女のアイデンティティそのものであることが伝わってくる。

次世代を育てる喜び

「この子たち、すごく観察力があるな」「自分と違って、早くから成長してるな」

後輩たちを見守る田鍋さんの眼差しには、母性と会社の先輩、両方の視点が混在している。それは、幼少期から培われた世話焼き気質と、紆余曲折の人生経験が合わさって初めて得られた、独特の視座なのだろう。

「リーダーじゃない立場になった時、与えられるものがなくなるからと思い嫌だった」という言葉に、彼女の本質が集約されている。人を育て、繋ぎ、コミュニティを作ることは、彼女にとって天職なのだ。

今も彼女は、コミュニティの中心で人と人を繋ぎ続けている。その姿は、まさに「姉御」と呼ぶにふさわしい。厳しさと優しさを併せ持ち、時に叱咤激励し、時に温かく包み込む。そんな彼女の存在が、多くの人々の成長を支え続けているのだ。

「人は人でしか磨かれない」

その言葉には、30年の人生で出会ってきた数多くの人々との関わりから得た、揺るぎない確信が込められている。そして今、彼女自身がその言葉を体現する存在として、次世代の「磨き役」を担っているのだ。

終わりに

実は筆者も、その"磨き"の洗礼を受けた一人である。ある全社イベントの日のこと。サウナで心身ともにリラックスしていた筆者は、突如、田鍋さんに川へと"投下"された。当然、サウナ上がりの身には酷な仕打ちである。

後日、あの行為は彼女お得意の"お節介"だったのか尋ねてみた。「いえ、イベント日近辺の筆者のアティチュードにイラっとしたので」

にっこりと笑いながら、実に爽やかな返答。

なるほど。世話焼きな"姉御"も、時として容赦ない。筆者こそ、"焼かれた"というわけである。

御後が宜しいようで。


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