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否定しない
無限性が腑に落ちてくると、『否定』という行為が働けなくなってくる。
否定しない/できない。否定をする根拠がまったく無い。何を根拠としてそういう否定ができるのか不思議に思う。
否定をしたいのならば定義なり根拠なりと言う前準備が必要になる。あらかじめ決めてある荷物を持ち歩いていないから、荷物と自己を同一化していないから、否定するという努力や前提をその都度設定するとうまくできることになる。
特に不要なものは何も持ち歩かない。しかし、必要なものはちゃんと持っていく。だから否定したい時にはその場で否定材料を揃える。
否定するためにはその現場で使われている通念を調べ上げ、その通念上の価値基準を拾い集め、善悪の定義を絞って見て、ようやく顕微鏡で見えるかのような狭い範囲に落とし込んで否定が見えてくるかの確認作業を始める。デフォルト設定では否定ができないので、オプション設定で任意に必要があれば手順を踏みつつ可能になる。
例えて言うなら、絵を書くときに書いた絵を否定する黒を部分的に塗りたいみたいな場合。(黒色に否定とかの意味が備わるという意味ではない。この例え話では黒色に与えた役割ということ。)
否定しないとは、制限のない思考のこと/呼び名。どれが今制限のある思考なのかがわかっているから、制限のない自由さを再選択するので、いちいち制限のある思考を手放す。
逆に言うと、「否定が出てきた」時なにが行われているのかと言うと、
誰の手も借りないで、最速に瞬間的に教えてくれている、『自浄作用のサイン』だという感じ。素晴らしい精度/速度での置き換わることのできない(そんなものが不要な)センサー群。一番役に立つ素敵なものを実は最初から持っているという根拠に当たる部分。
出来事がどうだという出来事の正負/正誤の判断のレベルの話ではなくて、今自分にどういう反応が起こっているのかだけの範囲のシグナルということ。
ここがキモ。ここが不十分な捉え方であれば、苦闘を繰り返すことになり、解決するということがない。
否定の瞬間的なシグナル/パルスを、継続的なエゴの餌にしないという範囲のこと。
エゴが活発化するための滋養/栄養素にする必要もないよという意味。自我(エゴ)とご自分の本意/真意とを分けて捉えられると、エゴのシャッフルに巻き込まれなくなって強くなれる。発想がゆらぎにくくなる。
ここまでが否定できたとき、否定に成功したとき、否定が現れたときの捉え方と根拠と言うか、心構えを示した。
否定が出てきたときは、あるがまんまを許せずに抵抗しているという見え方。(それを引き金として主義のバトルを始めると、好戦性が現れてくる場合も多い。が、そうしないというポイントは既に指摘したとおり。だからどうするというのも、いちいち制限のある思考を手放す。というふうに答えてある。)
肯定が出てきたときは、重み付けをしている、見たい部分にフォーカスできるように調整している。
どちらも、中立性を省くことで見たいようにできる。という自由さを発揮するという場面のこと。
否定を失ってしまった
否定をしてはいけないことだから、否定しません。と言う名のテンプレートではない。
キャッチコピー、スローガン、憲章、戒律、規律、訓、セールストーク、ポジショントークのことでもない。
否定しないことのほうが良いことだからという比較からくる善悪判定と罪の意識と罰が怖いからという回避等とも無関係の範囲のこと。
否定しないというのは、(元々そうである。善悪二元性を得る以前のやり方であった、)否定するというスキル/能力がOFFになってしまった、ということ。
能力を失効してしまった。失った。持っていた(と思っていた)能力が発動しなくなってしまった。という欠落の事。
しかし、それによって無限性だとか、無条件だとかそういう解釈の仕方に目が覚めたということ。別に「否定」しなくてもその能力がなくなってしまっても、やれることは多いし、別に困りもしないよね。という事。
唯一否定をしたいときにだけは困るかもしれないが、それ以外の普通に暮らす分には特に支障もないし、むしろ、自由にのびのびと暮らせて事足りているし、感謝しかないなあ、みたいな。
否定が常にONになっているときには、かぎ廻り、探り合い、掘り合い、探し回って見つけては、「とったど~」と歓声を上げて、いざ否定合戦の関ヶ原の戦いをしはじめていた。マウントを取ることに忙しく、なりふり構わず先手必勝で相手の痛いところをつくことが喜び/エクスタシーとまでなる。
または、自己を守るために、見たくないものを見ないために、まくし立て、自分に潔白無罪放免を言い渡すために抜かり無く反発している。ときには憤怒を表現し、威圧し、威嚇することで大きく見せ、たくましく見せ、相手の心を折ろうとも躍起に必死になる。ある場面から見えた正論を持ち、それを振り上げ、相手の顔面に叩きつける、そういったエゴ人生のストーリー。
それを失ってしまった。ある意味躍動感があり楽しかったのだけれど、好戦性が強い場合にはスリルもあり相手を打ち負かすことに関して策略を巡らせる醍醐味もあったりもしたのだが、捨ててしまった。というか要らなくなったと言うか、ふさわしくないと思うに至る。
それを持ったままでは、無限性というものがわけわからない物と感じるので、外してみることが必要で、外してみたら何だこちらのほうが良いじゃんと気がついたみたいな感じ。やってみる以前は半信半疑でも、やってみたらすんなりこっちのほうがいいし、とわかったということ。何より楽。
否定というツールが基本的スタンスから、こぼれ落ちて、握っていた手からスルリと抜け落ちてしまって、そのまま。べつに落ちたものを探しもしないし、拾いもしなかったのでそのまま消えた、みたいな感じ。無くそうとして投げ飛ばしたりは一度もしてないという感じ。失効。賞味期限切れ。ライセンス切れ。
曇りなき眼の無垢でピュアで微笑みをたたえた神の愛の伝道者
基本スタンスからは否定という成分が抜けているとは感じているけれど、完全に否定をしない「曇りなき眼の無垢でピュアで微笑みをたたえた神の愛の伝道者」みたいになるということではもちろんない。
むしろ、俗なものから覚めていると言うか、距離をとっているとか、俗なものに触れていないので、自分の事だけをしっかりと見ていて、その自分の事というのが、無限性のことなので、範囲が一番広そうだ。ということ。
否定はしょっちゅう出てくる。※1 でもそのときの反応の仕方が否定していないので、否定という成分のない否定。
ただの枠とか呼び方で言うと「否定」というジャンルにはなるかもしれないなあという意味での否定。潰そうとしていない否定。それを活かそうとしている否定。みたいな感じ。捉えようとしている最中の否定感。相容れなさの表現と取り込むための挑戦権みたいなこと。
※1 なにしろ無限を相手にしているので異文化に対する軽い拒否反応は都度でてくる。つまり異文化に触れるチャンスや回数が多め。
変なものを見ると、一旦は否定感が湧き上がってくる、しかし、それと同時に、その出来事を持ち帰って、時間を掛けて再吟味をして咀嚼してみると、何かしら今の自分に消化吸収されて自分の一部に収まる、みたいな流れで捉えている。
「否定」ツールとして見ていて、飲み込まれたり、踊らされたりはしていないという事。仕組みを把握して、使っているという感じ。包丁やまな板とおんなじツール群。
しかし、言葉上では普及している否定語に当たる言葉を普通に使用して、含めている意味に「否定」成分を含めずに抜いて使う場合が多いので、「良いも悪いもない」というコメントをいちいち入れないと、聞き手は否定されているんだと受け取ってしまうとわかっているので、そういうフォローはする。
否定するという能力が必要な人達はたくさんいるし、ぼくもそうだったので、そういう文化や能力、チャンス、機会は一切否定する余地が生まれていない。むしろ肯定している。なので、良いも悪いもないよとフォローを入れるというスタンスを取っている。
そもそも、無限を相手にしているので、否定というのはないけれど、否定というのも(すべての)一部なのでそれも否定していない。あるものすべてまるごとひとつも否定していないというのがぼくの理想。完全肯定。最終定理。
彼も頑張ってやってくれています
エゴが強過ぎて厄介で自分ではどうしようもないと否定を感じる場合には、エゴを漫画のキャラクターのように捉えて、
「彼も頑張ってやってくれています。」や
「彼も時にはくじけることもあるけど、強くあろうともがいています。」
とかの、簡易的な線引きを引くと良いかもしれない。
漫画:ワールドトリガーのお子様『ようたろう』のキャラのように捉えると面白いと思う。
または、「エゴよ、静まり給え!」と思考で言うとぼくの場合にはエゴがでしゃばるのをやめるので案外便利な文言として使う場面がある。
ちなみに、エゴは消えないし、消す必要もそれほど気にしていないかもしれない。エゴ=センシティブな心=怖がる気持ちを失ってしまうというのは、まだぼくには早いかもしれない。