気づきが「気づき」に気づくこと
1) 「ノンデュアリティとは『空』を指し示すもの」。空と呼ばれているものが何なのかをこれから知ろうとすること。空とは量子場の前にあるもの。量子場が気づき。
2) 「ノンデュアリズムとは、あるがままのリアリティの立場から選択すること。」
3) 「ノンデュアリティムーブメントとは、事実ベースのリアリティに参加することを表明したということ。」
※1 解説) 「空=ノーシング=名前のないもの=なんでもないもの」を指し示す手がかり/アプローチ/学習要件のことをノンデュアリティと言う。文化のこと。
ノンデュアリティルネッサンスというムーブメントの中で最大のテーマとなる「ノンデュアリティ」と呼ばれるものは、「気づき」のことを指している。気づきが「気づき」に気づくことを「気づき」と言う。または、気づきが「在る」と気づく。「在る」が在ることに気づく。とも言いかえれば同じことを指している。
しかしより細かく言うと、ノンデュアリティが指し示しているのは「空」で、「気づき」は空の中にある取り付く島のことなんだけれど、気づきに気づくことで空を見失うということが起こる。例えとして真っ暗闇の状況が空とすると、明かりがつくと気づき。気づきしか無いというのは言葉上はそうだけど、ベースに空が在る。空は実在する。
しかし、そんなに細かいことは気にする必要がまったくないので、気付きがノンデュアリティで一向に構わない。ノンデュアリティ=気づき=気づいている意識=気づきが「気づき」に気づくこと。
ノンデュアリティ上級者になると、その後どうする?という場所に出るので、その時から「空」という指標が必要になってくる。それまでは「空」が何かとかは不要なので気にしないで大丈夫。
※2 解説) 気づきしか無いという段になり、しかし在る「現実」というものが単なる現象であるとする、というのがノンデュアリティの立場。これをノンデュアリズム=ノンデュアリティ主義/主張と呼ぶ。(ノンデュアリティの立場から見た世界観のこと)
逆にデュアリズムというのは、世界には自分という個人的ななにかがいて相互作用しながら暮らしているという見え方/目線/世界の捉え方/立場をデュアリズム=デュアリティ主義/主張と呼ぶ。
※3 解説) 人類がタッグを組んでより密な連携プレーが必要な場面に入ると、それまでの「エゴ主体の個々人が好き勝手にばらばらに組み上げた仕組み」上では不整合が多発していることに憤りをかんじた。そうした動機から、空想主体の世界感から脱却を図って事実目線の在り方にシフトしようとする流れをノンデュアリティムーブメントと位置づける。事実は固定値なので誰でもが同じ目線に立つことが可能となる。多数決も不要な概念。空想が変数。
いきなり上記の解説ははっきり言ってわからないと思う。慣れが必要。でもノンデュアリティとは一体何なのか?をくっきりと示すとこうなる。
ノンデュアリティはわかってしまえば簡単な事なので実際簡単。わからない場合は単にどれを指しているのかわかっていない場合や、サングラスをかけたまま見ているからわかりようがないだけ。サングラスを外さないと実際の花の色がわからないと悩んでいるだけという例え。新しいサングラスに掛けかえるのではなく外すこと。どれがサングラスなのかをこれから見ていく。
また、さらに言うと、お勉強を極めてもそれはお勉強を極めているだけです。
今ここに実相としてある「この無」の非体験の経験こそがノンデュアリティが示している空のことなので、どんな説明も解釈も実際には不要です。
言葉は、とても便利なツールで、地図です。それをわかっていればどんな概念も使っていいと感じます。むしろ、空想方向へどのようにも膨らませて楽しんでいいと思っています。実相と空想の違いを楽しんでみましょう。