自動発動型パッシブスキル『所有の概念』について【11次元になる】
最近よく思うことがあり、それについての洞察と言うかメモらしきものです。まだふんわりしていて結論がありません。教えていただいて少し気づきつつあります。
結論だけ先に書くと、
これだけ言われてもなんのこっちゃかさっぱりんこなので一応説明します。
何にでも所有のベクトル(ものさし)から見ている
次の一文は何を書いてあるのか一見はてな?かもしれませんが少し感じてみてください。
☆右を向いたら『自分が』『自分の』『目で』右側の景色を『見た』という事が勘違いだということがあります。
自由意志があるからそういう設定にしてあるだけで、ただ存在しているのは自分の意志とは無関係に体(首)が傾き、ひねって目に映し出された光景を目の当たりにしたというだけです。
この話はノンデュアリティの話でよく聞いていたのですが、ぼくはその経験がなかったのでこれまでスルーしてきました。しかし、今は時は熟したのかそのメカニズムがよくわかるようになってきました。
所有の概念で、逐一糊(のり)か接着剤代わりにするかのようにありとあらゆるものを接着するついでに、それを認識しやすくしているかのような形だと感じます。
もしかして、所有の概念が一切なければ本当にただ眺めているだけでなにも引き込まれそうにないと思えてしまいます。所有の概念を逐一発動させているからこそ、自分に関係するものとしてとらえやすくしているのかなと言う印象があります。
自由意志があるので、というくだりの補足ですが、自由意志があるのでその接着剤の代わりの自由意志を発動させて、その中の所有の概念で持って、自分らしい意味付けを事細かにしています。
『右を見たら右の景色が見える』と言う場面では、まず初めに『自分が』右を見ていると勘違いしています。もうそこから自由意志上で事実無根の事柄を接着して現実に色を付けて見えるようにしています。このことはノンデュアリティのお決まりのテーマなのでよく聞いて理解できていました。
が、それは一旦置いといて次に進みましょう。今回のテーマは別にあるのです。
〇この章で一番言いたかったこと!
ノンデュアリティで言われなかったこと(たぶん言ってないよね?人によって言ってたかも?)を書きます。
まず初めに見えた『景色自体を所有します』。(←これが一番書きたいこと!)
これが最近ぼくが気づいたトリックです。(そう見えるかのように導いていただいたと言った方が正確ですが)
このことを少し説明してみます。
たいていの場合、日本語で何かを所有していると言えば、ものだとか権利だとかそういうもの、一般的によく言われているものを想像してしまいますが、今言わんとしていることは少し違っています。
〇 根本レイヤーについてです。
▽ 見えた景色それ自体を所有します。自分が見たんだと。自分の景色だと。
(気づいていないけど無意識に瞬発的に自分の見たものを自分の景色だと所有するということ、毎瞬毎瞬そうしているし、そうするのが当たり前なので疑問を持てない。)
▽ その景色内にある物体を所有しているというのはまた別のレイヤーの話で、今書きたいことは、一目見た瞬間の景色それ自体を瞬時に自分の配下に置く、経験の中、記憶の中に瞬時に置きます。
もうその時点から先あと全部、その価値観の上に重ねていきますので、そもそもの土台から間違っている(間違ってはいませんが)『偏見』の目を通した価値観を拾い、構築せざるを得ていません。
この微妙な論点についてまだはっきりと分類できていませんので探り探りですが、平たく言い直してみます。(誤解を恐れず今わかることをはっきりと書きます。)
右を見たら自分が右を見ていると感じています。その見えた景色は認識でとらえた景色だからそれを瞬時に所有してしまいます。だから、それ自体を手放せません。それを元にその人の世界が構築されていきます。
『所有の概念君』は物とか価値、利益など所有するにふさわしいと感じている一般的な物だけを所有するのではなくて、
『所有の概念君』の価値観では見るものすべて(認識上の全て)を所有します。所有せざるを得ないと言った方が正しそうですね。
ここまでは所有の概念の根本レイヤーがあり、その話を書いています。
1) 所有の概念の根本レイヤーは何もかもを即座に所有判定します。
2) その根本レイヤーから下っただいぶ後に物とか形、行いについての所有の有る無し判定が生まれています。(ノンデュアリティでよく言われているのはこちらのことです。)
わかりやすく書くとこうです。
▽ 存在>根本レイヤー(に属した所有の概念のようなもの)>>>>>>>>>>物や行いに対する所有の概念(通常の所有の概念。ノンデュアリティで一番話題になる個の所有の概念について)
存在直下の一番親レイヤーに根源的な所有の概念のようなものがあることで、子のさらに子のつまり孫、ひ孫、ひひひひひ孫世代のレイヤーにもその設定が活かされています。(継承されています。)
この一番親レイヤー由来の『見えた景色』とかいうレベルの基礎の基礎的な事に対する所有の概念が常時即座に発動しているおかげで、ひひひひひ孫世代のレイヤーである個の所有の概念もその個のレイヤーで捕まえておかなければならないことだけに専念できています。例えば、『お昼』『自分が』『何を』『食べようかな~』と言う事です。(伝わるかな~?笑)
所有の概念は曲者であると同時に、それが無ければ、自分と言う個を主張できないのかもしれないので、これを思いついた人は相当すごい曲者なんだなと冗談交じりに思います。
所有の概念が常時寸分狂うことなく発揮されるおかげで、日常生活が今の形で送れていると思います。
で、本題はここからです。
所有の概念を放棄した見え方が存在する
自動発動の所有の概念自体をシンプルによけて、より強い正しい(ライトな明るい軽い)物のとらえ方を使っていきます。
その時、すでに上にも書いてますが、見えた景色、意識に上った何かしら全部はすでに無意識化で所有の概念でくるまれていますので、もう所有されているんだと思っています。
まだどうしたらいいかの全貌はつかめていませんが、
所有の概念を外したりキャンセルしたりと言うのは(それに抵抗するのであれば)またエネルギーが余分にかかりそうなので、さて困ったぞと。
▽ 旅
別の視点からでは、
バシャールがバシャールの世界では白昼夢のように暮らしていてシンクロニシズムだけで暮らしていけてる、みたいなことを言いますよね。それが大きいヒントになると思います。
白昼夢のようなと言うのはそれだけ、自分の『旅』を所有していず、肉体に入ってはいるけれど、次何をするかを所有していないことで、思いついたことを楽しんだら辞め時が来て辞めて、次の指令がピンと来て今度はそれを楽しんで、、、みたいな風かなと今思います。
今存在がその通りに存在している様
以前書いたメモです。
こちらのメモの内容はこうです。
存在がただそう存在しているというドシンプルな生き方を実践してみると、車窓を流れる景色を好奇心を携えて見ている時の心境にすごく似ています。
で、どうすればそうできるのか?と言いますと、
単純に出来事から手を抜く。手を抜くというのは温度、熱量をかけすぎるのを手控えると言う意味だと感じます。
仕事の手を抜くというずるをするという意味ではないですよ。まったく力をかけません。何にも期待していません。という意味での手を引いている状態があります。
そういう状態を作り出してみると、ただ好奇心で持って眺めていられて、起きてくる何もかもからいちいち手を引くことで、その状況を繰り返せます。
ぼくもまだうまくできないので感覚的な説明でしたがこんなイメージを持っています。
結果として得られる体感は常に微弱な喜び、好奇心から来ているずっとつながる至福感かな?でもその代わり失うのは、自分に向かい起きてきたと思われるその出来事に対する積極的な介入の余地を失います。トレードオフですね。今わかる範囲ではですが。
これは所有の概念自体をオフにしていないからそう感じられているのかもしれませんが。
形ある何も持たないもの
こちらも以前書いたメモです。
上の「形ある何も持たないもの」という題のメモの内容を読み替えるとこんな感じです。
もともとの空(実在するもの)は形を持っていない(非物質)なので、それと同じく無形であるという事自体の方が有形で在れているという事よりも本質に沿っています。
有形であるという事はいつか無限の闇に飲まれる(元に戻る)という事でもあり、構築したすべてを取り去られます。
本人が望んですべてを「楽しかったよ。ありがとうございました!」と言い手放せるのであれば最高ですが、そこまでいかずともしぶしぶ返却期限が来たからと言って返却するかのようではがっかり感が生まれてしまいますよね。無念感、脱力感、エトセトラですね。
自分の中でものすごいエネルギーを込めて紡ぎだしたものほど、つまり有形に置き換えていったものほど、手元から離れると悲しむことになりかねません。
だからこそ、その前に自ら手放す訓練として、無形であることに触れています。物を持たないだとか、不必要だと学ぶことも兼ねますね。お金が少ない、デトックスをする、断捨離をするとかもその範疇にある。それら『無い』『持っていません』と言うのはステップとして手放す訓練生としての恩寵だよと、ここでは言っているのでは?と感じました。
感想
今回のテーマはぼくの個人的な理解力の話なのであんまりおもしろくないかもしれません。
これまで『手放す』と言う事を十分やってきたつもりではあったのですが、所有の概念をすっぽり手放す(完全0ベースまで)という事は考えついていませんでした。
もっと正確に言えば、手放せていると考えていました(すでに出来ていると自負していた)ので、手放せていない現実が現れてきた時に「あ!いけね!さあ手放そう」と認識の上ですぐにできます。反復練習のたまものですね。それはそれでいいでしょう。
でも思い返してみて、完全に何もかもサレンダーしたことは一度も無かったです。ゆだねるとかはやってきましたが、今できているかと言えばそうではありません。
〇 所有の概念には、現実レイヤーと根源レイヤーがある
しかも、ここが重要なのですが、現実世界の選択権を手放してサレンダーすればいいんだ、そういう事でしょう?という考えが違っていて、もう一歩先へ進めたかったのですね。現実レイヤー(現実世界)と言ったそのレイヤーごと変えなければいけなかったんです。認識していない根源レイヤーについてでした!
何もかもに完全にサレンダーするという段になると、景色を見て自分の景色だと無意識化でするその様子を手放して、「そう捉えたくなるのはわかるよ。でも違うよ。これは自分の見ている景色ではないよ。これは存在がその通りに存在しているだけだよ、ぼくはそこに入ってそれを楽しんでいるんだよ。」という認識で生きる窓です。つまり、平たく言えば根源レイヤーでの所有の概念みたいなものまで手放してみようというひらめきのことでした。
この新たな発想、生き方が今後何にどうつながっていくのかはまだ未知数ですが、今までこういう視点で生きたことが無いので興味はありますよね。
▽ 図で示すとこういうイメージ
〇存在
↓
〇根源レイヤー(に属した所有の概念のようなもの)(←★おまえ)
↓↓
↓↓↓
↓↓↓↓
~~~
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
〇個別レイヤー(通常の所有の概念)(←今回はおまえじゃない)
(ノンデュアリティでよく言われてる方)
存在直下に根源レイヤーがありそれが親です。
親の下に子のレイヤーがあり、その下に孫、ひ孫レイヤーが来てそのどれにも制限事項があります。その制限事項の中身の一つに今論じている『所有の概念』があります。
で、ぼく達が通常所有の概念だと認識している層は個別レイヤーのことでの話なので、一番下のひひひひひひ孫世代に当たるレイヤーでの話です。それがどの程度ひ孫に相当するかはまだわかりません。
で、ノンデュアリティでよく言われているのはその個別フロア(層)自体が無いよと言う事なので、個別フロアの中の1要素であるその階層担当の所有の概念も同時に無いよ。という事になります。
ノンデュアリティではそういう展開になりますが、今回のテーマはそれではなくて、基礎の基礎レイヤーでの『景色自体を所有する』というレベルでの即時の所有の概念の話がしたかったことです。
そもそも景色も虚像のホログラムですので自分の所有物として持つ意味はあんまりないかもしれません。
存在の初期設定にまでメスを入れ始めてますね。笑
個人的にはなかなか楽しいテーマだと思います。
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