劇的な別れ

 四月の終わりにモールドファットを出た私は一五七号線をひた走る長距離バスに乗り込み、次の街を目指していた。

 モールドファットでの顛末は「虹色の肉の街」という題で『ニューアドリー・ツーリズム誌一〇二号』及び『ファインドマンの世界紀行録第十二巻』に掲載されているので詳しく知りたい方ぜひそちらに目を通して欲しいのだが、とにかく私はあの街で行われた「虹の宴」にて心と胃袋に深い傷を負った。
 実際宴から数週間は目が肉を受け付けず、それどころか肉のような赤々としたものを見ると全てが虹色に見えてしまうほどの重症だった。
 そんな状態だったから、次は必ず魚が食べられる場所に行こう、と心に決めていた。
 だが虹の宴で満身創痍となり逃げるようにモールドファットを出てきた私には次の目的地を決めることすら容易ではなかった。
 途方に暮れながらぼんやりバス停のベンチで長距離バスを待っていると、「昨日はどうも」と声をかけてきた人物がいた。
「君は……確か宴で見たような気がするな」
「ええ。おかげで僕もやられました」
 青年旅人もまた青白い顔で私の隣に腰を下ろす。
「これからどちらに行かれるのですか?」
「特に決めていない。決めないのが私の主義なのだ」
「はは、いかにも旅人って感じですね」
「褒めているのかね? 馬鹿にしているのかね?」
「もちろん褒めてますよ」
「だがしかし……次は魚が食べたい気分だ」
「ああ、いいですね魚。前の街はそれこそ港町で美味しい魚がたくさん――」
「なんだと!?」
 その時の私は我ながら紳士らしさを失っていたように思う。
 しかし魚を求める私の胃袋はさながら獣。「港町の美味しい魚」の話をされて黙っていられるわけもない。
「どこだねそれは! ここから近いのか?」
「え、ええ。ここからだと次の次のバスに乗れば……」
 私はこれ幸いと彼から話を聞き出し次の目的地を決めた。青年旅人はこちらのあまりの剣幕に若干怯えていた。大変申し訳ない。
「して、その街の名は?」
「グリオンデンです。賢王グリオンデンが建てた都市国家だったそうですね」
 青年旅人は地図を広げて見せてくれた。
 グリオンデンなる街はモールドファットから南東に向かったところにあった。彼の話によれば、内陸にある主要都市からは遠く離れているため交易のための港としては使用されなかったものの、近海から取れる豊富な海の幸やそれらを加工した食品によって経済的にも栄えていたらしい。
「特にグリオンデンで作られる魚の缶詰は本当に美味しいですよ。知る人ぞ知る名物だというのですが、言うだけのことはありましたね」
「缶詰が美味いのか?」
「ええ。それに朝は市場もにぎわっています。獲れたての魚を目の前でさばいてくれる屋台とかもありましてね、これがまた圧巻なんです」
 もうそれだけで私の心はグッと掴まれていた。
 これぞ渡りに船!
 肉は食えないといったそばから私に魚をお恵み下さる慈悲深さはまさに神の思し召しとしか言いようがない。
 さらに青年旅人はダメ押しの一手を放ってきた!
「あの街に行くと、人生観変わりますよ」
「人生観!」
 ああ、神よ!
 この哀れな若者をお許しください!
 まさかこの道二十年のベテラン旅人である私に対して「人生観変わりますよ」などと浅はかな感想を披露するなど、まさに愚行。
 第一この世界に「人生観が変わる」とラベリングされているものが多すぎるのだ。
 世間知らずの箱入りが旅に出て新たな価値観に触れて視座が変わる、というのは理解ができる。だがしかし旅人というものはむしろ裸一貫であらゆる文化をその身に浴び続けているようなものだ。今更港町の一つや二つ訪れた程度で変わるほどやわな人生観を持ち合わせてはいない。
 だが、だが彼がそこまで言うのだ。
 であれば先の言葉は私に対する挑戦である。
 勝負を持ちかけられたら無言で応じるのが漢というもの。
 私は満足げに頷いて、
「それは素晴らしい! グリオンデンとやらに行く楽しみが一つ増えたよ」
 と答えたのだった。
 それからしばらくグリオンデンについて話半分に聞いていたのだが、南へ向かうバスが来たのでサインの交換をして私はバスへと乗り込んだ。(お互いの旅日誌に日付とサインをしておくことでいつかどこかで再会したときの助けになる。これは旅人の間の暗黙のルールなのでこれから旅人になろうと考えている者は覚えておくとよい)
 というわけでモールドファットから長距離バスに揺られること丸二日。
 私はグリオンデン城壁前のバス停に到着した。正午過ぎに着いた長距離バスから降車したのは私だけだった。
 本国の諸君にはあまり馴染みないだろうがこの辺りは元は小さな都市国家が点々としているような土地だった。それが先の大戦により大国に取り込まれ、連合国家として再編されたという経緯を持つ。
 そのため古くからある都市は大抵城壁で囲まれ、入るにも出るにも入都管理所を通らねばならない。おまけに田舎道過ぎて三日に一本の長距離バス以外は車もほとんど通らないという有り様だ。まあそのおかげで大抵の街は治安がとても良い。
 鉄扉が取り払われたかつての城門の脇にある入都管理所へ行くと、カウンターにいた若い役人が私を見て
「ようこそグリオンデンへ!」
 と大きな声で話しかけてきた。
 浅黒い肌に筋肉質な体つきの若者だ。きっと漁師の息子か何かだろう。
「どうも。観光で来たのだが」
「ありがとうございます! それではパスポートを……ファインドマンさんですね。ちなみに滞在日数や宿泊先などは決まっていますか?」
「いや、突発的に来たので特に決まっていないのだが」
「それでしたらオススメの宿がありますよ。市場に近いところでね、女将さんの料理が絶品なんです」
「素晴らしい! ではそこに行ってみよう」
「街の地図もお渡ししておきます。迷ったら港を目指してください」
 そう言って彼は手書きの簡易的な地図を渡してくれた。親切だ。
「ありがとう。では私はこれで……」
「あっお待ちください!」
「ん? ぬおっ!?」
 思わず私の口から変な音が出た。だがそれも仕方がない。
 というのも、
「うっ……うおおおおおおおおお! もう行ってしまわれるのですねぇ……! おぅおぉ……!」
 と若い役人が私の腕を掴んで号泣していたのだ。
(一体いつの間にこの男は涙腺を開いたんだ……!?)
 あまりの意味の分からない事態にさすがの私も絶句してしまった。
「ああ、その……どうかしたのかね君」
「これでお別れだど思うと寂じぐて……! いえ、いえ、お気になさらず! ごれはごの街の風習なのですがお客様には馴染みのないことだと思いますので!」
 洟を垂らしすぎて風習がフウジュウとなってしまっている。
「変わった風習だな? え、どういうことだ?」
「この街では皆、常に今生の別れだと思って挨拶を交わすのです……!」
「そ、そうか。……本当に皆こんな感じなのか?」
「はい、こんな感じです。おうおう……」
 大変な街に来てしまった。
 私はもっとカロリーの低い場所を求めてやってきたはずなのに……。
「ですがこれは素晴らしい出会いでした! また会える幸運を祈っております!」
「また出国の時に会おう……」
 私は心底ドン引きしつつも役人の手を握り返してその場を後にしたのだった。
 果たして、私の危惧は現実のものとなった。
「生きて帰れよぉ兄弟!」「アナタ、やっぱり行かないで……!」「またの、またのお越しをお待ちしておりますぅぅぅぅ!」
 もう街中泣き声ばかり。
 むしろ鳴いているのでは? 老若男女全ての人間を巻き込んだ安っぽい演劇のように見えて仕方がない。よくもまああんなに声を絞り出せるものだ。ここまで別れ一つに感動されるともはや阿鼻叫喚の地獄絵図だ。
 興味のない人間の感動シーンを延々と見せられることほどストレスを感じることはない。この旅における教訓だな。
 とにかく早く人のいない場所へ避難しなければ。
 私は精神の危機を感じながら役人の教えてくれた宿へと向かった。
 大通りを奥へと進めば進むほど潮の香りが強くなる。
 そろそろ海に出るだろうかという辺りで大通りを逸れると目的の宿があった。
 民宿のような見た目だ。きっと料理は絶品に違いない。
 だがしかし、いかにしたものか……。
 この時の私はこの街の人との会話が心底嫌になっていて(といいつつもまだ入都管理官の若者としか話していなかったが)、宿に入ってオーナーと話をすることすら億劫だった。
 まさか誰とも話したくないなどという心境に至るとは……。
 そんなことで扉を開けるべきか否か迷って数分ほどうろうろしていたのだが、道行く婦人に怪しげな視線を向けられてしまったので慌てて宿へと入ってみた。
 私を出迎えたのは仏頂面の中年女性だった。エプロンにこの宿のロゴが入っていたのでオーナーだとすぐにわかった。
 入都管理所でこの宿のことを聞いたのだと伝えると、無言で頷いて鍵を差し出してくる。
 私はこの一瞬のやり取りだけでこのオーナーのことが好きになってしまっていた。良かった、少なくともここにいれば騒音に悩まされることはない。
 それに無口で職人気質な男というのは大抵仕事に誇りを持っているタイプだ。きっと食事はいいものが出て来るに違いない。
 渡された鍵には部屋番号が書いてなかったが、オーナーが上を指していたのでとりあえず二階に上がってみた。すると扉が一つだけ現れた。
 てっきり何部屋かあるのかと思っていたのだが、どうやらこの宿には部屋が一つしかないらしい。
 そんなことあるのか?
 一度階下に戻ってオーナーに「本当に上?」と聞いてみたがこくりと頷くだけ。
 オススメとやらは罠だったのか……?
 私は震えながら、念のため部屋の扉をノックしてみた。
「ばあさんか? 飯にはまだ早いんじゃ……」
 そう言って出てきたのはひげ面の男だった。
「んおっあんた誰だ?」
 失礼なやつめ。
「いや……私は今日からここに泊まる客なのだが」
「ああそうか。俺はジェイク、よろしくな。」 
「……ファインドマンだ。こちらこそよろしく頼む」
 私はジェイクと名乗った男と軽く握手を交わした。
「まあ中に入ってくれ。あんたは今着いたばかりか?」
「その通りだ」
「じゃああれには驚いただろう」
「ああ、本当に……管理官殿に聞きはしたのだがどうにも不思議な風習だ」
「パンチは強いが話せば他とそう変わらないさ。四六時中緑色の塗料を顔に塗ってなきゃいけない、なんて街よりはよっぽどましさ」
「もしや君もあの街に行ったのか? 確かにあそこは酷い場所だった! 魔除けだなんだといって人の顔に勝手に草の汁を塗りつけてきて……おかげで数週間肌がかぶれっぱなしだったよ!」
「お、行ったことがあるのか! じゃああんたも旅人なんだな。まあじゃなきゃこんな何もない街には来ないか」
「まあ……悪く言うつもりはないが、少々アクセスは悪いし観光には不向きだろう」
「オマケに街に入るだけであれを食らうんだからな。プロじゃなきゃ中々ハードルが高い」
「全く同感だ」
 私は深く頷いた。ジェイクとやらは無礼な男かと思ったが、話せば案外人懐っこさを感じさせる。話しやすさもまた旅人としては重要だ。しかもあの「緑の顔の街」(『ファインドマンの世界紀行録第六巻』を参照のこと)に行っていたとは! 
 あの深い森の奥にある閉鎖的な街にまで足を運ぶのは覚悟の決まっている旅人しかいない。
 そのことで私は一気にジェイクという男を信用してしまった。
 やはり私は同業者に弱いのである。
「で、ここがお前さんの部屋だ」
「ほう」
「そんで俺の部屋でもある」
「ほう?」
 そこそこの広さの部屋に二段ベッドと簡素なテーブルが置かれている。本当に寝泊まりするためだけの部屋だ。二段ベッドの上の段にはすでにジェイクとやらの荷物が置かれている。
「……もしかして相部屋か?」
「はは、なぜかこの一室しかそもそもないんだ。俺も来たときは先住民がいて内心がっかりしたものだが、まあ一日あれば慣れるだろう」
 確かにこの街の人と比べれば突然泣き叫んだりしないだけましかもしれないが……。
「すまないな。まさかこんなさびれた宿に他の客が止まりに来るなんて思っていなくてよ、少し散らかしちまってる」
「うむ、まあ……」
「とはいえここは他に比べれば宿代は半額だし、何よりばあさんの作る料理は絶品だ。むさい男と寝泊まりするのが我慢できるならそれだけの価値はあるぜ」
 確かに値段は何より考慮すべきだ。いくら印税で儲けているとはいえ、手持ちの現金が多いわけではない。
 しかもここまでバスに乗りっぱなしでまともな食事を取っていなかった。
 滞在中に酒場を回ろうとは思っているが、到着初日に行くにはどう考えてもカロリーが高すぎる。
 その点この宿にいれば陽気な同居人のことに目を瞑れば黙っていてもうまい飯が食える。
「ではよろしく頼むよ」
 男二人での同居が決まった瞬間である。
 ジェイクもまた私と同じ旅人でここへは三日ほど前についたのだという。旅人というのは話のタネに尽きないもので、やれどこどこの街はよかった、どこどこの景色が素晴らしかったとお互いの旅の話をちらほらとしていたらいつの間にか日が暮れていた。
 特にジェイクはひげ面に似合わず人懐っこいことがあったのも大きかったかもしれない。
 途中、オーナーが夕食を作ってくれたというので食堂へと移動した。
 食卓に並んでいたのはパンと魚のスープとソテーだった。スープは透き通っていながら魚の旨味がギュッと凝縮されていて、いつまでも啜っていられるほど。ソテーは逆にとても肉厚な魚が使われており、淡白な身にかかったソースが食欲をそそった。端的に言って非情に美味であった。
 オーナーは無口な方でそれが何の魚なのかは教えてもらえなかったが。
 料理を食べ終えたジェイクと私はオーナーに礼を言ってまた部屋へと戻った。
 結局私たちはその日宿から一歩も出ず夜通し旅の話に花を咲かせたのだった。

■ ■ ■
 
 グリオンデン滞在二日目。
 なんだかんだ不満はあったものの熟睡できてしまった私は、ジェイクに連れられて港へと足を運んでいた。
 観光客向けに海釣りをさせてくれる船があるらしく
「別れ際の風習はかなり異様だが、慣れれば案外たいしたことはない」
 とジェイクが言うので、朝市へ顔を出そうと思ったのだ。
 やはり港町だけあって魚市場はかなりの賑わいを見せていた。
 船からは今まさに獲れた魚たちが陸へと揚げられてきており、漁師たちが選別している。そこから一部は市場へ、それ以外はトラックへと載せられていっていた。
 店頭では主婦たちが新鮮な魚を買いあさっている。その様はまさに獲物を狩るサメのようだ。
「すごい熱気だろ? ここの主婦は皆目が肥えてるからな、下手な魚は並ばないのさ」
 なるほど、見れば確かにどれも鱗のツヤが素晴らしい。
「これは……生半な覚悟では混ざれなさそうだ」
「俺は興味本位で参加してみたが痛い目を見たぜ」
 当たり前だ。いくらひげ面の成人男性とはいえ獣の前では無力である。
「そういえば、ここではあの儀式が行われていないのか?」
 さすがのグリオンデン人もここまでの規模だと長ったらしい挨拶など交わしている暇はないだろう。
 と思っていたのだが。
「あっち見てみろ」
 ジェイクが指さした法を見ると広場のようなところに人が何人も集まっていた。
「まさかとは思うが……」
「そのまさかさ。儀式がやりたい奴はあそこに集まって泣きあうんだ」
 正直なところ、そこまでしてやらなければならないことなのかとうんざりした。同じ街の中で日々暮らしているのだから、明日どころか数時間以内にばったりと再会することだって不思議ではない。だというのにわざわざ儀式用の広場まで設けている。
 ここまで来るともはや執念だ。彼らのいかにも悲しいという声を耳にするだけでこちらの気が滅入ってしまう。
 何より私よりもこの街に長くいるジェイクが私をここに連れてきたかった意味が分からない。
「君はあれに耐性ができたのか? 私には少々……刺激が強すぎるというか……」
「オブラートに包まなくてもいい。俺の前に宿にいた奴がいるって昨日話しただろ? あいつは「この街にいたら頭がおかしくなる!」って出ていったよ」
「正しい反応だろう。大体楽しくもなんともないだろうに、よくもまあ律義なものだよ。もっと感情豊かで日々劇的に生きているならまだわかるがね、別れる時だけだぞ? 本人たちも非合理なことだとは思っていないのだろうか?」
 少し小声になりながら不満を漏らした私を見て、ジェイクはくっくっと笑う。
「厳しいことを言うじゃないか。……俺は彼らがここまでこだわる理由も分からんでもないがね」
「本当か?」
「意味がなくてめんどくさいことだったとしてもやると決まっているからやる、って人は少なくない。俺たちにはわからなくても彼らには大事なことなんだろう」
「……」
「ま、俺らにわかるのはここの魚が美味いってことくらいだ。朝飯にはちょうどいい時間だしな。そこの露店の鯖サンドが絶品なんだ」
 鯖サンドをウキウキで買いに行くジェイクの背を見ながら、私は一つの深い後悔を抱いていた。 
 文化というのは大抵非合理的で不便なものだ。だがそれは元々何もかもが非合理的で不便だった時代につくられたもの。各地にある謎の祭りや風習というのは、大抵災害や疫病による不幸を無理やりにでも納得させるための儀式として成り立ったものだ。
 それがいつしか「儀式を行うことが同じ共同体にいる仲間の証である」と逆転する。つまり文化を履行することそのものが文化となる。
 外部から見れば多分かの風習というのはどうにも異形の存在として映りがちだ。だがしかしその文化に生きる者たちには必要不可欠なのだ。
 そして旅人は異なる文化の生活に身を浸し、主観と客観の立場から文化を眺める観測者なのだ。学者のように価値づけをすることも、侵略者のように文化を貶めることも適切ではない。
 ただ体験し感じる。重要なのはそれだけなのだ。
 だというのに旅人の心得を忘れ嫌悪するなど……一体何がプロであろうか。
 私はそれからジェイクが鯖サンドを持ってくるまで、広場にいる人たちを眺めていた。
 
 それから午前中は買い食いをしつつ街を回っていたが、午後になると再び港へと戻ってきた。元々ジェイクが予約をしていたらしいのだが、好意で私も乗せてもらえることになったのだ。
 この時間には港も落ち着いていた。
 港の端の方に目当ての船が止まっている。
 船長はこの道三十年の大ベテランだという。
「なーにが釣りたい?」
「デカいのがいいな。とにかくデカけりゃいい」
 そうして私たちは沖へ出た。
「お前さんたち運がよかったなー。今日は転記が良くて波も低いから釣りにゃーもってこいの日だ」
「日頃の行いがいいからな!」
 確かに船長の言うように波も風も穏やかだった。
 私は船が結構好きだ。陸の生き物だからこそ、踏みしめる大地も寄る辺となる草木もない海上は気軽に非日常を演出してくれる。
 だが残念なことにその時の私は海を楽しむような気分になれていなかった。
「どうしたよファインドマンさん、随分元気がねえな。もしかしてもう酔っちまったか?」
「ああいや、船酔いはしていない。私はこれでも乗り物に酔ったことがないのが自慢でね」
「油断してっとすーぐやられちまうから気ぃつけろよー」
「だとさ。まあ釣りなんてものは釣り糸を垂らしておけば勝手に魚が引っかかってくれるからな。考え事にはちょうどいいだろう」
「……君は見た目よりもよほど他人を見ているんだな」
「誉め言葉だと受け取っておく」
 船長にロッドの使い方を教わり釣り糸を垂らす。
 ジェイクの言う通り、ウキがゆらゆらと動くのを見ているだけでだんだんと頭の靄が晴れていく感覚がする。
 果たして私はなぜここまでのショックを受けているのだろう?
 旅人として守るべき姿勢が守れていなかったのは事実だが、正直それだけで私がここまで思いを巡らすことはない。
 何かが引っ掛かっていた。
 あるいはどこかで本能的に嫌悪感か何かを抱く要因があったのだろうか?
 そこでふと一つの疑問が私の頭をよぎった。
 そもそもあれは何のために発生した風習なのだろうか?
「船長。つかぬことをお聞きするのだが……」
「おー」
「なぜこの街の人たちはあそこまで別れに固執するのだ?」
 船長はその質問に一瞬眉を動かした。
「ああ、それは俺も聞いてみたかったんだ」
「知らなかったのか?」
「いや……意外と聞くタイミングがないだろ。特にあれをやられてるときは」
「確かに。いや、船長、無理にというわけではないので話しづらいのならばよいのだが」
「別に大したこたーないからいいけどよ」
 些細な別れでも一生の別れのようにふるまう風習というのは、グリオンデン公がこの街を治めるよりももっと前からあるそうだ。
 元々海沿いで土地も肥沃ではないグリオンデンは主要な産業が漁業しかなかった。おまけに他の街からも離れているため輸出入が困難であったため、唯一の食料源である漁師たちは多少無理をしてでも魚を獲ってこなければならなかった。
 だが当然、無理に海へと出れば事故が起きる。悪天候の中餓死寸前の妻子たちに食べ物を食べさせるために船を出す漁師の姿は珍しいものではなかったという。
 そのうち彼らは海へ出る=今生の別れだと思い始め、漁師が海へ出る時はもう会えないと思って涙を流し別れを告げるようになった。
 もちろんこれは漁師の間で発生したものだったが、次第に別れの時には涙を流す、という文化が漁師外にも定着し始め、今では皆があの儀式をするようになったのだ。
「……とゆーことだな」
「意外にちゃんとした理由だったんだな……」
「彼らにとっては大事なことだ、といったのは君の方だろうに」
 船長の話を聞いて私はいささか胸のつかえがとれたような気分になっていた。
 私が気持ち悪さを感じていたのはそれだったのか、と。
「いやあ、貴重なお話を聞かせていただき誠にありがたい。おかげでこの街のことがようやくわかったような気がする! なあジェイク?」
「お、おう」
「それよりおめー、さっき引いてたぞ」
「えっ!?」
 私の竿からは見事にえさが持ってかれていたのであった。
 
 釣りを終えて港に戻ったのは日が暮れる頃。
 結局私が釣った魚は三匹でどれもあまり大きくなかったのだが、ジェイクは宣言通りデカい魚を釣っていた。
「宿に持って帰って捌いてもらえー。特にそのデカいのは揚げるとうまい」
「おお! そりゃあいいな、ファインドマンさん、さっさと帰って料理してもらおう!」
「あ、ああ……そうだな」
 ジェイクは船長に礼を言うと、魚が満杯のアイスボックスを抱えてさっさと行ってしまおうとする。船長はぐっと親指を立てていた。
「ジェイク、ちょっと待ってくれないか」
「ん?」
 深呼吸を一つして、船長を見据えた。
「船長、ここであなたに会えたのは僥倖だった! 私は旅のプロを名乗り本を出しやたらめたらと初心者をこき下ろしていたのだが、そのうちに旅の初心を忘れてしまっていた! すなわち郷に入っては郷に従え、ということを! だがそこのジェイクと、そしてあなたのおかげで大事なことを思い出せた! 本当にありがとう! この出会いは奇跡だ!」
「お……おお! お前さん……!」
 私は泣いていた。いや、泣こうとしようとしている顔をしていた、のかもしれない。
「恥ずかしがることも鬱陶しがることもなかったのだよジェイク! 私たちは旅人だ! 堂々と郷に入って泣き叫ぶべきだったのだ!」
「ファインドマンさん……よし、わかった! 船長おおおお! うおおおおおおお!」
 野太い男の声が夕暮れの港にこだまする。
 この日、私は真の意味でグリオンデンへと入ったのだった。

■ ■ ■

二日目の一件以降、私は積極的に街へと出るようになった。もちろんジェイクも一緒だ。
 私たちはとにかく街中の人と話をするようにした。
 つまり多くの人との別れを経験しようとしたのだ。
 旅人でありながらその土地の文化を面倒だと切り捨てようとしていた私は愚かだった。面倒かどうかはその身で味わってから判断せねばならぬというのに。
 しかし、それは想像以上に過酷な作業だった。
 別れの旅に号泣し相手の無事と幸運を祈る儀式。この作業に必要なことは何よりも羞恥心を捨てることだった。
 あまりにぎこちないせいで街の人から不審な目を向けられたことも何度かあった。私たちは相変わらず何も喋らない宿のオーナーに協力を依頼し、機を見ては別れの練習に励んでいた。

だがやっているうちに段々と理解してくるものがある。
 別れとは高揚感なのだ。
 ただ泣いて言葉を並べればいいというものではない。
 今自分が欲しい言葉。次に相手が欲しい言葉。その大きな流れの中に感情を乗せる。
 それはさながら一流の社交ダンサーがお互いの重心の位置を感じ取ってムーブを決めていくかのような繊細な作業だと言える。
 これは同じ街で同じ文化の中で生きてきた者たちにとってはごく当たり前のことなのだろう。しかし余所者の私にとってはそのグルーヴ感の無さが致命的なぎこちなさを生んでいるのだった。
「無理をしなくても、それっぽい言葉だけで理解してくれるだろうに」
 あまりのぎこちなさにジェイクですら同情の声をかけてくる始末だった。
 だがもはやこれは文化理解だなんだという話ではなくなっていた。
 私の意地の問題だったのだ。
 旅の相方が難なくこなしていることが私にはできない。それが悔しくてたまらない!「芝居臭くならず自然に泣く! これができるまで私はこの街を去らないぞ!」
 不退転の覚悟を決めた私は呆れるジェイクを尻目に一人街へと繰り出していった。
 その後姿はさながら大学生のナンパのようだったという。

■ ■ ■

そしてグリオンデン滞在七日目。
 私は宿の軒先で、涙腺という涙腺を崩壊させながらジェイクと熱い握手を交わしていた。
「ジェイク……君と過ごしたこの一週間は素晴らしかった! これほどまでに気の合う仲間はそうはいない!」
「光栄だ、兄弟! 俺はあんたほどの男を知らねえ。何度も何度も棒読みだ、本気になれていねえと子供にすら馬鹿にされていたのに、あんたは決してあきらめなかった! 今流しているこの涙は噓じゃねえ! そうだろう!?」
 ああ、なんと切なる別れなのだろう!
 この別れは本物だ! 私たちは旅人。一期一会の存在。もう二度と会うことはないかもしれない。 
 かつてのグリオンデンの漁師たちが、海に出ればもう家族には会えないかもしれないという恐怖に打ち勝つために行っていたこの儀式。私は今心の底から彼らのことを理解し、グリオンデン人となることができている!
「別れがこんなにも辛く厳しいものだったなんて……。これまで長く旅を続けてきたが気づくことができなかった自分が恥ずかしい!」
 いつの間にか私たちの周りにはこの数日お世話になった人たちが集まり皆で涙を流していた。
 彼らの涙もまた噓ではない。私たちの心の底からの別れを目の当たりにして、自分たちがどこか惰性で続けてきていた文化の重要性を理解したのだ。
「ああ、兄弟……あんたと別れるのは惜しい、惜しいけどよ、もう時間みてえだ」
 ジェイクに言われて顔をあげてみれば、そばにはオーナーが立っていた。
 いつもは無口無表情の彼女ですら、この時は目に涙を湛えていた。
 そしてバスの時間が迫ってきていた。
「オーナーにも世話になった! この未熟な私たちを導いてくれて本当にありがとう!」
 オーナーは静かに涙を流してくれていた。
 それは私たちにとって何よりの手向けだった。
「なあ兄弟、この星は丸いんだ。旅をしていればまたいつか会う日が来るかもしれねえ」
「その通りだ! 私たちは旅人、歩き続ければいつか奇跡とも巡り合うだろう! ほんのしばしの別れに過ぎん! 胸を張って別れを告げようじゃないか、さらばだ我が兄弟よ!」
「みんな、俺たち二人の門出に祝福を!」
「祝福を!」
 最後に固い抱擁を交わした私たちは、お互いに背を向けて新たなる道へと歩き出したのだった。

■ ■ ■

ちなみにグリオンデン発の長距離バスにジェイクも乗り合わせていたのだが、これは余談である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?