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『ONE PIECE FILM RED』は、なぜAdoのライブだったのか

映画としては30点!
ワンピースとしても30点!
でもエンタメとしては80点!

それが『ONE PIECE FILM RED』(以下『RED』)だ。
いや、この映画まじで評価が難しい。
決して面白かったとはいえないし、ワンピースを求めていった心が満たされたかというと全くそんなことはない。
だがそれでも劇場を出た時の満足感はめちゃくちゃ高かった。
おすすめはできないけど、僕は多分あと2回くらい見返したい気がする。

音楽映画としての『RED』

1.音楽はマジですごい

まず大前提として、Adoはめちゃくちゃ歌がうまい。
もう本当にすごい。

ポップな曲もダークな曲も、声色を変えながら軸をぶれさせずに歌い上げる技量は並みの歌手ではできないだろう。

それにそれぞれの曲が新進気鋭のミュージシャンを起用しているから、楽曲の完成度も非常に高い。
戦闘シーンで流れる「逆光」や「Tot Musica」はAdoのパワーを最大限活かした名曲だと言えるだろう。

もちろん映像も素晴らしい。
こんなに金のかかったMVはないだろう。
めちゃくちゃかっこいい。

本当にライブシーンを見るだけでも1900円の価値はある。

2.映画としてはカス

「映画として」というのは、物語・映像・音楽といった総合的なバランスの完成度を指している。
それでいうと『RED』はかなりカスだ。

まず導入部分がいただけない。
ワンピース映画の基本構造はこれだ。
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 ①謎の島や謎のイベントが一味に示される。
 ②ルフィが「うるせぇ! いこう!」といって参加。それなりに楽しむ。
 ③敵側の陰謀が働いて巻き込まれる。
 ④1回敗北したあとにキーキャラの背景が説明される。
 ⑤リベンジマッチに勝利して大団円。
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僕は別にこの構造にのっとっていなければいけないとか言いたいわけではない。
だがこの構造はとてもシンプルかつわかりやすい、優れモノなのだ。

特に①は、その話の舞台となる場所の説明と敵キャラの紹介が入る。
このパートによって観客は麦わらの一味と共に冒険に繰り出すのだ。

だが『RED』に関しては、もうライブ会場についていて、しかもなぜか特等席でライブの開始を待っているような状態からスタートする。
ウタがルフィのことを知っていて招待したのかとも思ったが、別にそんなことはない。
つまり導入シーンから観客は完全に映画に置いてけぼりにされているのだ。
TVシリーズで補完されているのかもしれないが、さすがにちょっといただけない。

また①には、今回出てくるキャラクターは誰なのか、を示す役割もある。
『GOLD』や『Z』からは海軍・海賊・革命軍などの人気キャラクターが入り乱れて参加するようになったが、基本的にはこの①のパートにて顔出し+参加理由の説明が入っている。
①に登場しない場合でもそのキャラクターが出て来ることに納得のいく説明がなされていることがほとんどだ。

しかし『RED』に出てくる麦わらの一味以外のキャラクターは、突然特に大した理由もなく現れる。
出すことが決まったから登場シーンを付け加えた、といっても過言ではないような雑さだ。

完全に「ウタのライブのために削りました」というのが透けて見えてしまっている。
もちろんライブシーンはメインディッシュであるが、メインディッシュをさっさと食わせるためにスープや前菜で手を抜いてしまってはフルコース全体の格を下げてしまう。

他にも、話の展開としても結構あれな部分がある。
ところどころ謎のギャグが挿入されるのだが、それが尽く面白くない。
きついなぁってほどでもないのがさらに腹立つ。

ちなみにストーリーの動力になっているのは麦わらの一味ではない。
これは若干仕方ない部分もあるのだが、ルフィがウタと敵対することに関してまったく乗り気ではないために、主人公でありながら話を転がす中心にまったく来ないのだ。
そのせいでコビーやブルーノの方が話を回す役になってしまい、麦わらの一味はほとんどがピクミンと化している。
あれだけキャラが増えてしまったからというのはあるのだが、それにしても戦闘シーン以外でまともなアクションを取らせてもらえないのはどうなのだろう。

あと不必要なマスコット化。
サニー号やベポやブルーノがマスコットキャラ化してわちゃわちゃするのだが、あれがなぜ起こったのか全く分からない。
特にサニー号。お前特になんも仕事しないのになんでマスコットになったんだ?
可愛いからいいじゃん、との意見は確かに正しいのだが、映画的な視点で言うなら何かしら活躍の場を与えてほしかった。
だってサニー号の擬人化だぜ?
もっといろいろできただろ。

3.ウタが可愛い

だがそこで終わらないのがワンピース。
ワンピース映画は尾田が監修していることもあってか、ゲストキャラのキャラ立ちがめちゃくちゃいい。
設定面でなく、画面上で起きるアクションによってキャラクターを立たせるのがものすごくうまいのだ。

正直なところウタのキャラデザを見た時はなんだこいつと思った。
全然かわいくないし、その輪っかはなんなんだよ、と。

しかしこの輪っかをつけた尾田はやはり天才だった。
気分によってピコピコ動く輪っかがめちゃくちゃかわいい。
表情豊かで顔芸もできる。

そしてルフィの幼馴染というあまりにも無理筋な設定を押し通す思い出エピソード。
喧嘩の代わりに色々な勝負をしてきたという二人の様子は、一切恋愛を想起させないのに親友であることがわかる。
(ルフィが何をされても一切戦意を見せないこともこの関係の深さを示していて素晴らしい)

存在しない記憶があふれ出てくるというのはこういうことをいうのか……とかなり大真面目に脱帽した。
シャンクスと仲違いせず一緒にルフィと海賊になったルートを妄想できるくらいに、ウタというキャラクターに惚れてしまった。

結論

映画としてはカス。しかし見るとライブシーンとウタの可愛さにやられてしまう。


なぜ『RED』はAdoのライブといわれるのか?

さて、ここからが本題だ。
『RED』は一部でAdoのライブと揶揄されている。
まあ今一番勢いに乗っているAdoに歌わせて、しかも作中7曲も流れるのだからいたしかたないともいえる。
だが僕はそことは違う部分で「Adoのライブ」だと言われてしまう原因があると思っている。

ウタの歌は音楽面では本当に傑作だった。
だがしかし、「ワンピース」としてみると全くもってよろしくない。
ここがAdoのライブと評される理由だろう。

というのも、あの曲たちは「JPOP」であって「ワンピース世界の曲」ではないからだ。
ワンピースには有名な「ビンクスの酒」という曲がある。
ちゃんと『ウタの歌』のアルバムの最後にも収録されているのだが、海賊たちはみなあの歌を歌える。
「ビンクスの酒」はワンピース世界を象徴する歌なのだ。

あの曲で重要なのは、ジャンル的にポップスやクラシックやジャズではなく「船乗りの歌」として作られているという点だ。

民謡や舟歌などの大昔に民間でうたわれた歌というのは、基本的に厳しい労働を和らげながらみんなで一体となって進めていくための、いわば掛け声に近いものだ。
特に舟歌は大量にいる船の漕ぎ手がタイミングを合わせて一斉に漕ぐためにみんなで歌う。
つまり「誰でも簡単に歌えてすぐに覚えられる」ものでなければならない。
その視点で言えば、「ビンクスの酒」は(船をみんなで漕ぐ用途には使えないかもしれないが)「ヨホホーイ」から始まる、みんなで歌うための曲だった。

だがウタの歌はどうだろうか。
新進気鋭のミュージシャンたちによる傑作ぞろいだ。
これは確かにみんなに好きになってもらえるだろう。
しかしそのみんなは、海賊ではなく現代の日本人だ。

しかし船乗りには理解できないだろう。
難解でテクニックが要求されるようなメロディラインに乗った少女の独白なんぞが、むさくて単純な海賊の心を揺さぶれるわけがない。

「新世界」などはまだいい。大人になってから作った曲だ、といえばまだ説明はつく。
しかし、シャンクスたちに聞かせてあげた思い出の歌の「世界のつづき」はどうだろうか?
あれを聞いて港町で幼馴染と遊んだ楽しかった子供のころの思い出や切なさ、郷愁を思い出す人間はいないだろう。
あの曲に子供らしい単純さ、子守唄のような安らぎはない。
シャンクスたちに喜んでもらいたいと思う子供のウタが歌うのは、「ビンクスの酒」であって「世界のつづき」ではない。

そう、この歌たちは「ワンピース世界」で生まれる歌ではないのだ。
ウタの心情に寄り添っていたとしても、「大海賊時代を生きるウタが歌う歌」として成立していない。

それが「Adoのライブ」と揶揄されてしまう原因だろう。

まとめ

最初に『RED』を音楽映画と言ったが、もっと狭めて「歌姫映画」「歌姫設定」といってしまってもいいかもしれない。
『竜とそばかすの姫』や『マクロス』など、歌姫の歌が力を与えるという設定の作品は数多くあるが、それらはかなりの確率で、上述した「名曲だが世界を背景としていない」ために説得力を持たないという問題を抱えている。

音楽には歴史がある。
背景があって文脈がある。
それらを無視した「売れそうな曲」は作品世界の歴史文脈と反発して違和感を生んでしまう。

次やるときは海賊アレンジをちゃんと加えて曲を作ってほしいものだ。

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