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『不可能』の薔薇を、お前に手向ける
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店を出る際、男は必ず手袋を穿いていた。
それは自衛のためであると同時に……いわば、「他衛」のためでもあった。
過ぎた力は、自分も他人も傷つける。
男はそれをよく理解していた。歴史からでなく、他ならぬ自分自身の、愚かしい経験から。
けれど。
それを差し置いてでも、今夜の男には、先を急ぐ理由があった。
日除けを下げ、照明を落とし、街路へ出る。そうして扉の鍵に手をかけ―――
「おっと 今夜はもう店仕舞いか? バーテンダー」
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男の、錠前にかけた手が止まる。
声の主は店の壁を背に、横目で男の表情を窺っていた。
いや。
横目に、という表現は、些か適切でないかもしれない。
なぜなら―――声の主には、眼がなかったからだ。
比喩的な表現ではない。実際にそうなのだ。
眼窩は大きく落ち窪み、額や頬にかけて無数のひび割れが走った貌。
眼球が収まるべき空間に収められるのは、無限の虚空。
しかしその虚空は、確かに男の方を「向いて」いた。
その「視線」を確かに感じながら、しかし男は応えなかった。
一度止めた手で扉を閉じ、そのまま店を後にしようとする。
「おいおい 久し振りのご対面だぜ? ゆっくり話でもしようぜ な」
別の口から出た同じ声が、男を呼び止める。
壁に背を預けたそれとは別の。
それでいて、全く同じ姿形をした……「何者か」。
それは進路を遮るように、男の前にこれ見よがしに立ってみせた。
厭らしい笑みを浮かべ、男の顔を覗き込む。
その、刹那。
男の掌が激しく瞬き―――眼前の「何者か」は、その笑みごと消え去った。
残された足腰がその場に力なく崩れ落ち、重苦しい音を立てる。
「おおっと こわいこわい」
自らの残骸を眺め、「もうひとり」がわざとらしく声をあげる。
「どうしたよ バーテンダー 今夜は随分血の気が多いじゃねえか―――まるで」
「大事なオトモダチでも 助けに行くみたいに な?」
直後。
紫水晶に輝く無数の刃が突き出し、「もうひとり」を串刺しにする。
千切れた四肢が宙を舞い、それらは無造作に落ちて転がった。
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「黙れ、名無し。おまえが、彼女のことを語るな」
男の声は、低く唸るようなそれだった。
店の客が聞けば、驚き、恐ろしいと感じるような……明確な敵意を孕んだ、声。
それは目の前の「ふたつ」を片付けたという、勝利を示すものでは断じてなかった。
「へえ」
事実として。
「お前のそんな顔を見られるとはな こいつは思わぬ収穫だった」
「三人目」が。
「四人目」が。
「五人目」が。
転がる自身の頭を踏みつけながら、男の前に姿を現したのだから。
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「しかし 名無し とはねえ 言うじゃねえか」
「それら」が、一斉に左手を掲げる。
拳銃。小銃。散弾銃。
機関砲。榴弾砲。戦車砲。
ありとあらゆる武器が空中に現れ、その場を埋め尽くしていく。
銃口は一様に、男の方を向いていた。
「そいつは『俺たち』も流石に…… 頭に血が上っちまうかもなあ!?」
轟音と無数の閃光が、静寂の街角を染め上げる。
しかしそれらの一切は、男の肌を裂き、肉を抉る事はかなわない。
男の前に現れた紫水晶の壁が、あらゆる害意をすべて防ぎ、無力化してしまうためだ。
弾薬が底を尽き、砲火は絶えた。
そうして訪れた静寂の中、男は口を開く。
「偽物の人間もどきがよく言う」
「それなら、血の一滴でも流してみればいいじゃないか」
突き刺すような、静寂。
そののち。
「ハハ ハハハ!」
「「「「「「「「「「 ハハハハハハハハハハハハハハハハハハ! 」」」」」」」」」」
哄笑の、大合唱。
「そうかい」
「「「「「「「「「―――そんなに死にたきゃ 殺してやるよ!」」」」」」」」」」
その夜、起きたことは―――無数の何者かと、たった一人の男の、戦争だった。
――――――――――――――――――――
「ああ はじまったな 予定通りだ」
「俺たちとそこで 精々殺し合っていろ しんゆう」
「ようやく訪れた機会なんだ―――邪魔してくれるなよ なあ」
黒いコートを翻し。
青い炎を灯した虚ろは、青い薔薇を携えて。
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