
THE LAST OF US PART Ⅱ ストーリー考察
はじめに
ノーティードッグ制作の大ヒットビデオゲーム「THE LAST OF US」(以下「1」)の続編「THE LAST OF US PART Ⅱ」(以下「2」)。
僕はそれほど多くのビデオゲームをプレイしているわけではなく、もっぱら映画ばかり観ているのだが、このゲームのシナリオには衝撃的な感動を受けた。
この作品の脚本は単純に筋を追っただけでは理解できない、比喩や文脈で読み取らせる手法が多く盛り込まれている。そこで、自分なりにシナリオを解読し、物語のテーマや散りばめられたモチーフの意図がなんであったのか、考察してみた。
※文中にネタバレを含みます。
エリーとアビー、異なる二人の同一性
エリーの旅
「2」において、エリーは19歳に成長し、ジョエルの弟トミーとその妻マリアが仕切るジャクソン郡のコミュニティに身を寄せている。
エリーは右腕の噛み傷を隠すため薬品で傷跡を焼き、更にタトゥーを施しているが、このタトゥーは、19歳現在のエリーを読み解くのに最も重要な物だ。
タトゥーのモチーフは「シダ植物」と「蛾」。
既知の通り、「TLOU」シリーズのディストピアは植物性の病原菌によってもたらされ、世界は植物に支配されている状況だ。
つまり、モチーフの「シダ植物」が示すものは「世界」そのもの。
対して「蛾」はエリー自身を示す。
蛾は、光を求めて飛ぶ生物だ。幼くして大事な物の全てを失ったエリーにとって人生は暗いものだったが、にわかに差し込んだ光が、自らの体に宿る「抗体」、そして「ジョエル」の存在だった。
だが、ジョエルはエリーの意思を無視して彼女を救い、その行いによって抗体が役立つ可能性も消えた。
もとより命を投げ打つ覚悟のあったエリーにとってジョエルの行動は利己的な裏切りに他ならず、「1」のラストにおいてエリーはジョエルに対する信頼を決定的に損ない、人生にたった二つの光の両方を同時に失ってしまったのだ。
人は、最初から低い場所にいるよりも、上っているはしごを途中で外された時のほうが深い傷を負うものだ。だから、エリーは19歳になってもなお、ジョエルの選択を許せないでいる。
エリーのタトゥーとはつまり「光を失った世界で、なお光を求めてもがくエリー自身」を示唆している。
では、エリーの求める「光」とは何なのか。
19歳のエリーは、思ったことを日記にしたためたり、こっそり曲を作って感情を閉じ込めるような内省的な性格だ。だが、こと「怒り」に関しては瞬発的に表に出してしまう。
エリーの日記を見てもわかる通り、日々の中で彼女はきちんと喜びや幸せを感じる瞬間もあった。だが、それらを表に出すのは抑えていて「怒り」だけ抑えきれないのは、彼女の心には根深く「意に反することを許すことができない」という想いがあるからだ。そのきっかけは当然、ジョエルである。
ジョエルに対するエリーの言葉「そのことは一生許せないと思う。でも、許したいとは思ってる(チャプター:「エピローグ」)」からも分かる通り、エリーにとっての「光」とは、「いつか許せるようになること」なのだ。
エリーのタトゥーは、それが出来る自分を求めて彷徨う姿を示しているものだと言え、物語の大きなヒントとなっている。
エリーはジョエルが生きているからこそ得うる「許し」の機会を永遠に失う。復讐を到達点としたエリーの旅は、光を失った蛾が闇夜を暴れ回るようなものだったのだ。
アビー
「2」のもうひとりの主人公、アビー。
痩せ形で赤毛で内向的なエリーとは正反対に、アビーはマッチョでブロンドで仲間を家族のように思い、周囲とも協調できる人物だ。
一見するとエリーとは立場も性格も対照的な人物に見えるアビーだが、根底の部分ではエリーと同一の存在だ。
アビーの父は反政府組織「FIREFLY(蛍)」のリーダーで、アビー自身もその一員だった。
蛍は、自ら光を放つ生物だ。アビーは、エリーの命を奪ってまでワクチン開発をすべきなのかと悩む父に、「これが私でも、パパに手術してほしい(チャプター:「追跡」)」と助言する。FIREFLYと大義と、そこで父の成す仕事が暗闇に包まれた世界の光になると信じていたからだ。
しかし父は殺され、組織の消滅によってアビーは「光」を失った。
憎悪のままにアビーはジョエルに復讐を果たすが、決して心が癒えることはなく、むしろジョエルの命を懇願するエリーの姿に大事な人を失った過去の自分を重ね、新たなトラウマとなってしまう。アビーもまたエリー同様、「許すこと」ができなかったことによって「光」を見失ってしまったのだ。
「じゃあ、自分はどうすればよかったのか?」それが、アビーの物語において最も重要なテーマであり、エリーとアビーは全く同じカルマに囚われた存在なのだ。
二人の行く先にはジョエルの姿がある
アビーの変化
アビー編のハイライトと言えるのが、「レブ」という少年(あえてこう表記する)の登場だ。彼の存在は、アビーの心に大きな変化をもたらした。
レブはアビーの所属組織「Washington Liberation Front(W.L.F)」と敵対する「Seraphites(Scars)」の一員であり、WLFの立場からすれば残忍でイカれたカルト集団のひとりで、憎しみよりも先に殺し合う純粋な敵だった。
だがアビーはレブ達との偶発的な出会いによって、彼らの人間性に触れることになる。憎むべき相手の中にも様々な事情や個人の性質があり、それは翻ってWLFの仲間たちと何も変わらないと気づくのだ。
さらにレブが姉を失い、彼がアビーにとっての守るべき存在に変わると、アビーはここでようやくジョエルの行動に納得できるようになる。ジョエルの行動はエリーに対する親心から生まれたものであり、レブの保護者となったことでアビーは親となり、同一の心情が生まれたからだ。
最後の決闘の舞台が「劇場」である意味
迎えた最終局面、エリー達が隠れ家にしていた劇場で二人は決闘する。
ここで注目したいのは、決闘の場が劇場の表舞台ではなく、裏側であるということ。
劇場の裏側というのは、衣装や小道具や舞台装置がそこら中に置かれた空間で、華やかで整然とした表舞台を表現するためのあらゆる要素が雑多にある、舞台の内蔵ともいえる空間である。
二人が舞台の裏で戦うことが意味するものは、心の内の見せ合い、本心のぶつかり合いだ。
前述の通り、エリーとアビーは本質的には似た存在だ。互いに最大に憎み合う相手でありながら、お互いを本当に分かり合えるのもまたお互いしかいない。劇場の裏側が戦いの場であるという演出は、二人の決闘がこれまで誰にも見せなかった心の奥底を曝け出し合うものであることの比喩として機能しているのだ。
それから、なぜアビーがエリーを殺さなかったのかということについても、前述のアビーの変化から説明がいく。
アビーはレブとの出会いによってエリーより一足先にカルマから抜け出していたのだ。憎しみをぶつけるより、大事な何かを守ることを優先し、復讐が無意味なものだとはっきり自覚した。だからこそ、エリーを殺さないことですべてを終わりにしようと思ったのだろう。
だがその選択は、消えない傷を残したままエリーに生きることを強制する残酷なものでもあった。
ジョエルとしてのアビー、エリーとしてのレブ
決闘を終えたのち、アビーとレブはFIREFLYの生き残りを捜してサンタバーバラへと旅する。
FIREFLYを捜してアメリカを旅する二人の姿は、そのまま「1」のジョエルとエリーの姿に重なる。
特に、レブのいでたちは明らかに14歳のエリーを意識したものだ。
細身の体に武器を持ち、アビーを後ろから援護しつつも彼女に守られていて、さらにレブはエリーと全く同じコンバースのスニーカーを履いている(チャプター:「コンスタンス2425」)。
コンバースのスニーカーはシリーズ通してエリーのアイコン的アイテムのひとつであり、それを踏襲しているレブは「1」のエリーとしての役回りになっていると考えられ、その演出の意図とは、アビーがジョエルの立場になっていることを示すためだ。
その他にも、アビーが「レディファーストだ」というシーンは、ジョエルが「1」で言っていた台詞そのままであるし、ハイタッチするシーンも「1」のジョエルとエリーそのままだ。
それらは、後述するエリーの結末への伏線となっている。
エリーの旅の終わり
対してエリーは、ディーナとその子供J.Jと共に街外れの農場で暮らしている。
その平和な生活の中でエリー自身も自分の人生を取り戻そうとしているが、彼女には未だジョエルの死がPTSDとして残り苦しめられている。
そこに現れたトミーによって、エリーは再び復讐へ動き出す。
愛する家族の制止を振り切ってまでもエリーが復讐へ向かうのは、それが「やらなければならなかったこと」だと信じていたからだ。
だが、保養所に囚われたアビーとレブに直面した時、エリーに変化が訪れる。
アビーはエリーにとって唯一共通の意思を持つ人間のはずだった。そのアビーが必死にレブを守ろうとする姿にジョエルを重ね、かつてのジョエルが信頼と関係を投げ打ってまでも自分を救おうとした理由にようやく気づくのだ。そして、叶わないものになってしまっていたジョエルに対しての「許し」を、ジョエルの権化としてのアビーを「許すこと」で達成する。
そうしてようやく、エリーの旅は終焉を迎えたのだ。
「贖罪」とは
本シリーズのCD兼脚本家であるニール・ドラックマン氏は、「2」を「贖罪の物語」だと語っている。
ここまでの僕の解釈で導き出すとすれば、「罪」とは「許せなかったこと」であり、「贖い」とは「許すこと」であったのだ。
タイトル「THE LAST OF US」の意味
直訳すれば「私たちの最後」だが、「1」と「2」ではタイトルの指す意味合いが変わってくる。
「1」においては、ジョエルに対して失望を抱いたエリーの立場からの「これが私たちの最後」という意味で、エリーがジョエルからの自立する決意だと捉えるのが妥当だろう。
だが「2」においての「私たち」とは、ジョエルとエリー、あるいはエリーとディーナのことではなく、エリーとその「罪」を「私たち」、「最後」とは「罪」との決別を意味するものではないだろうか。
「TLOU」で一環しているのは、罪悪感から逃れられなかった者は死んでいくということだ。「1」のテス、マーリーン、ヘンリー、ジュリー。「2」のオーウェン、そしてジョエル。
つまり、エリーが生き続けるためには「罪」と明確に決別する必要があった。そしてエリーがそのことを達成した時にようやく、彼女の生きる未来に「光」が差し込んだのではないだろうか。
すべてが終わったあとに残ったもの
ディーナの夢
ラストシーンでは、すべてを終えたエリーがディーナと暮らしていた農場の家に帰るものの、すでに退去し、もぬけの殻になっている。
ここにはいくつかの解釈をする余地があるが、状況から見て最も可能性が高いと思われるのは、「ディーナはエリーの帰りを待たず農場を去り、ジャクソンのコミュニティに戻った」というものだろう。つまり、「ディーナとエリーは決別した」ということだ。
ディーナが「農場を持つのが夢(チャプター:「ダウンタウン」)」と語っていた通り、農場はジャクソン郊外の場所にあって、エリーはディーナの夢を叶える形で一緒に暮らし始めたのだろう。
だが、ディーナは親になり、さらにエリーも去った。チャプター:「農場」におけるディーナの姿からも分かる通り、彼女はすでに夢見る少女ではなく立派な母親として自覚を持っている。いつまでも幻想に囚われ続けるエリーとは違い、ディーナはきちんと現実に向き合って生きているのだ。
そういった状況では、エリーとディーナがパートナーとして上手くいかなくなるのは当然といえる。そしてエリーの旅立ちが決定打となり、ディーナは「夢」である農場から去り、J.Jを安全に育てられるジャクソンへ戻った。それがディーナにとっての「現実」だったから。
妥当に考えれば、ここまでが結末だと思われることも多いだろう。
だがラストのエリーの姿に込められた「文脈」を読み解くと、別の景色が見えてくる。
ラストシーン、農場に戻ってきたエリーの服装に注目してほしい。
ダークトーンのネルシャツの腕をたくし上げ、足下はワークブーツ。
これは、「1」のジョエルのいでたちそのままだ。
エリーは、過去のジョエルやディーナにも語っているように、スニーカーが好きで冬だろうがいつも履いていたことが窺える。
さらに、ジョエルは娘のサラを「大学に入る前に授かった」と「1」で語った。とすると、ジョエルがサラを授かったのは18-20歳くらいだろう。これは、エリーが20歳前後でJ.Jという子の親になっている状況に符号する。
エリーがスニーカーを捨て、かつジョエルと似た服装に変化しているということの意味は、「1」のジョエルの物語を繰り返していることを示唆しているのではないだろうか。
「1」の物語は、生きるためにどんな悪辣なこともやってきたジョエルが、エリーの父親として変化していく姿を描くものだ。
つまり、ラストシーンにおいてエリーは「親」として、またディーナのパートナーとして「現実」に生きることを決意ししたあと、「夢」である農場の家と、ジョエルの権化であるギターを置き去りにして「〝君を失ったら我を失ってしまうだろう〟」というジョエルとの依存関係に決別したのだと解釈できるように思う。
そう仮定すると、ディーナとエリーの結末は少し変わる。
現実と向き合ったエリーはジャクソンでディーナとJ.Jと暮らし、新たな生活を送っていて、ある種の禊として、農場の家を訪れ別れを告げたのではないか。
そしてJ.Jへの「大きくなったら、ギターを教えてあげるね(チャプター:「農場」)」という約束を、いずれ果たすのではないだろうか。
かつてのジョエルが、エリーへの約束を果たしたように。
もちろん、作品を観て受ける感性は人それぞれだし、すべての人が感じたものが正解だと思う。あくまでひとつの可能性として、上記が「2」に対する僕の解釈だ。
思わずグッとくる制作陣の気配り
最後に、僕が個人的にグッときた制作陣の気配りをいくつか上げる。
サムのおもちゃ
「1」悲劇の死を遂げたサムがどうしてもほしかったロボットのおもちゃが、「2」の冒頭エリーの部屋の机にちゃんと飾られている(チャプター:「起床」)。「1」からプレイしているファンにとっては、さっそく泣かせにくる演出だ。
ジョエルがプレゼントしたギター
ジョエルがエリーにプレゼントするギターだが、これは「Taylor」というメーカーのものだ。
Taylorはカリフォルニア発祥の職人気質のメーカーで、大量生産はせずひとつひとつ手作りで丁寧に仕上げられている。
手触りがよくてフレットがとても持ちやすく、良質の木材を厳選して制作しているため頑丈でチューニングの狂いや手入れの頻度が少なく済み、初心者や女性の小さい手でも扱いやすいため、ジョエルはエリーにこのギターを選んだのだろう。
上記の通り生産数はさほど多くないメーカーなので、文明崩壊から20数年経った「TLOU」の世界でこのギターをジョエルが見つけるのは相当苦労したであろうことが想像でき、ジョエルの深い愛情を窺い知れる演出となっている。
TAKE ON ME
チャプター:「ダウンタウン」の楽器店の二階奥の部屋に入ると、エリーがギターを見つけてノルウェー出身のバンドA-haの大ヒット曲「TAKE ON ME」のカヴァーを歌う。
超ビッグヒットなので様々なアーティストがカヴァーしている楽曲ではあるが、今まで聴いた中でも一番クールなカヴァーだった。
でも、なぜこの曲なのか。
もちろん、「好き」を中々言い出せなかったエリーのディーナに対する心情に歌詞がマッチしているというのは最大の理由だろう。
しかし、ちょっと深読みしすぎかもしれないけれども、「TAKE ON ME」の発表は1985年。ジョエルは2013年時点で20代後半という設定なので、1985年てもしかしてジョエルの誕生年なんじゃないか。
そして、この曲のMVには当時では珍しかった「ロトスコープ」の技法が使用されている。
ロトスコープとは、まず実写を撮影してからアニメーションに変換する手法のことだが、これは「TLOU」を含めた近年のハイエンドゲームに多く用いられるグラフィック制作方法の原点だ。
ということで、「TAKE ON ME」をチョイスしたのは時代の先駆を行った先人へのリスペクトと、ジョエルファンへの思いやりが込められているのでは……と個人的には思った。
熱くなりすぎていることは自覚しています。
まだまだ書ききれないほどの魅力に溢れた「2」の世界。
このビデオゲームが、僕の人生におけるマスターピースのひとつになったことは間違いない。