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[生汁日乗]血:2024年11月7日(木)

晴れ。ともすると、その日の天気の記憶が朧。心にゆとりを持たねば。

朝刊の一面を見て。来るべき今後を憂う。憂いてばかりでも仕方ないが。

長男氏、副鼻腔炎で学校休み。お弁当作っちゃったから、お昼に食べて貰う。養生なさい。

私も、夕方になると体力が陰り、夜になると猛烈に眠たくなる。風邪ひかない様にせねば。

いつか、マイクロ・ライブラリーみたいなものができたらな、と思う。そういうことを気にかけているからか、新聞を読んでいると、本屋が減っている系、その中で本を絶やさぬ取り組み系の記事が目に入る機会が多い。本というメディアを維持することについて思い馳せる。

宮崎駿の『魔女の宅急便』で、以下のような台詞がある。

「魔女の血、絵描きの血、パン職人の血。神様か誰かがくれた力なんだよね。」

これについては、特に自分が働くようになってから、憧れと嫉妬の様なものを感じていた。自分の職業(労働)と血(才能や志向)が一致した生は、本当に充足したものになるだろうな、と。引き替え、自分はそうではない、と。

が、最近気づいた。もしも「本読みの血」というものがあるとしたら、自分の中にはそれが少し流れているのかも知れないと。そして、同じように気づく。「血」は必ずしも「労働」と密着している必要はないのだ、と。「労働」に生の重きを置き過ぎた価値観。それでもって、この台詞を受け止めていたから、苦しかったのかも知れない。

ひとつの「特徴的な血」が自分の生を支える「強い力」として先天的に与えられているのだとしたら、それは素晴らしいギフトだと思う。でも、誰しもそれがあるわけではない。

本質的には、ひとりひとりの中には色んな「血」がない交ぜに流れているのだと考える。自分の生をそれひとつで支えられる程に強くなくても、自分の生に少しばかりの「彩り」を添えてくれるものが、自分を流れる数多の血の中にも、少しはあるのかもしれない。私の場合は、それが「本読みの血」なのかもしれない、と。

本を読んで生きて行きたいから、本という存在は守りたいと思う。ひとりの「本読み」として思うこと。

内田樹『困難な成熟』が届く。Titleでは取り寄せが難しいと言われたので、メルカリで古本を。古本とは言え、とても綺麗。夜に少し読む。

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