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[生汁日乗]間借り人の「戦術」:2024年11月2日(土)

思い詰めたように顔を上げれば
遂に待ちわびた休息が転がる
他には何もいらない

斉藤和義『僕の踵はなかなか減らない』


休息だ。土曜日だ。朝の天気は雨。

子供たちは土曜授業へ。カミさんは通院。私は独り遅めの朝食。生活クラブのシラスと卵えご飯。旨い。

午前中、「哲椀」収録。年始から、ほぼ月いちで配信を始め、今回で第11椀。「自分」とは?ーというテーマ。例によって話が発散するも、1時間以内に納める。

ここのとこ調子が優れず、病院で検査を受けてたカミさん。診断の結果しばらく休職することに。安静にして薬を飲む必要があるが、ちょっとした外出や食事などの日常生活は送れそう。ここのところ、ずっと疲れ切っていたので、これを機に、ゆっくり養生して貰いたい。

午後、「哲椀」の編集したり、ペーターさんとLINEやり取りしたり。

気がついたら降り始めていた雨。夕方になって雨足が強まる。傘を持ってでなかった長女を迎えに祖父母宅へ。久しぶりに履くレインブーツ。

近所のスーパーで半額になったお寿司を手に入れる。

帰宅後、豚汁を作り、買ってきたお寿司とともにブラタモリを観ながら頂く。

ブラタモリは8ヶ月ぶりの復活放送。3夜連続「東海道五十七次」特集。京都への道を直前で逸れ、大阪へ向かう知られざる(?)東海道。おもろい。

食後、「哲椀」第11椀リリース。あと、「ごとうにんシアター」のサイトメンテ。なんだかせかせかし過ぎかも。もうすこしゆっくりやろう。

柿内正午の本をジワジワ読んでいる。おもろい。

なぜ飲みの席でのサラリーマンはだいたいにおいて経営者目線で偉そうに語るのか。それはこの社会が、その構成員として経営者たちしか数え上げていないことに、自覚しないままに気がついているからである。社会にとって市民とは企業であり、経営者でしかありえない。それはここまでの所有を巡る思索の中でもなんとなく把握できることだろう。社会とは私的所有に承認と保護を与える制度であ るが、そもそも近代資本主義社会とは生産手段の所有に偏りがあることを前提とした社会であり、だいたいにおいて 生産手段は企業や経営者 (マルクスの言葉を借りるなら 「資本家」)の手に独占されている。

賃労働者とは排他的に独占され締め出された生産手段を借用して生産する間借り人にすぎない。他人の所有物である生産手段の内部において、賃労働者は資本家の論理に基づいて生産に従事することが期待されている。しかし間借り人は、その場所を借りているからといってなんでもかんでも貸主の意図を忖度する義理もないのである。

ド・セルトーは『日常的実践のポイエティーク』において、所有するものたちの大局的な計画・実行の原理である「戦略」と対比して、持たざる者たちが配置された場所場所でありものをブリコラージュしながら計画者の意図をはみ出たなにものかを生産する技法を「戦術」と呼んで照らし出した。会社とは、資本家からすればド・セルトーのいう「戦略」を展開するための機関である。われわれ「戦略」の現場の間借り人である賃労働者は、本来「戦略」に奉仕すべき資源の一部をちっぽけな個人たちの生活に役立てる「戦術」の道具に転嫁するような「密猟」をもっと試行するべきではないか。

柿内正午『会社員の哲学』

カウンターの思想。良い。

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