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[生汁日乗]2月の始まり:2025年2月1日(土)


晴れからの曇り。2月が始まる。


本当はずるずると眠っていたかったのだけど、燃えるゴミを出すために起床。近頃、いくらでも眠ってられる感じ。


息子殿は午前中部活のため自分で朝御飯食べて出かけていた。


朝食は娘殿と、軽く。ふたりで日本茶を飲み、新聞に目を通す。


洗濯機を回して、本読み。


娘殿や、帰宅した息子殿らに昼食をサーブし、自分も軽く済ませて、午後も本読み。


『生成と消滅の精神史』の第Ⅰ部 西洋編を読了。フランシスコ・ヴァレラの思想がおもしろい。

ヴァレラの「上演する心」に込められた重要な点は、私たちの心が行為によって導かれて生成するという点と、それは他者や環境と共に成立するということであるが、格別に「上演」というメタファーが示唆しているのは、それが行為の喪失によって主体も世界も立ち消えてしまうという「弱さ/儚さ」の思想である。

私たちの意識は、安定しているように見えながら絶えず崩壊の最中にあり、同時に絶えずそれを補修する過程にある不安定な存在である。いつ壊れてもおかしくない綻びと保全の拮抗の運動こそ私たちの意識なのだ。それはあらかじめ安定して与えられた世界の管理者であるような強い心ではなく、しかしかといって一挙に世界に呑み込まれてしまう無力な心でもなく、世界に巻き込まれながら絶えずか細い糸を編み続けるような、頼りない弱い心である。安定した大地を真っ直ぐ歩くような心ではなく、自分の靴を自分で持ち上げて空中を歩くような、矛盾そのものに駆動される心である。

しかしその綻びと繕いの必死な姿は、私たちに変化することをもたらす。石のような凝固でもなく、霧のような霧散でもない、ぼんやりとその形を維持し、変化し続けることこそ私たちの生の姿である。

そんな弱い心が、放り込まれた世界の中で、幕間の束の間に上演する。おそらくはそのような心の姿こそが、ヴァレラが「Enactive Mind(上演する心)」という言葉に込めた思想ではないだろうか。

下西風澄『生成と消滅の精神史』


夕方、自転車で、ふらり外出。空模様は下り坂な感じで重く雲に覆われていたけど、今日のうちは雨は大丈夫そう。


まずは「ベンチタイム・ブックス」へ。近頃、少し中毒的に聴いている、新村さんの楽曲。別のCDを求める。あとは、店の入り口あたりで見つけた新潮文庫の『ゲーテ格言集』を一冊。ゲーテは全く読んだことが無かったけれど、カフカつながりで少し興味を持つも、『ファウスト』とかはまだ敷居が高い。格言集は、さらっとつまみ食いが出来て気が楽で良い。詩集はまた今度に。レジに持って行くと、店主の高田さんは「ドイツ沼ですね」と笑ってくれた。新村さんの楽曲についてとか、翻訳ということについてなど、少しお話しをする。高田さんは言葉の端々に、文学に対する物凄い造形の深さが伺える。


後、荻窪方面へ自転車を向け、散髪。5ヶ月ぶりくらい。とても短くしてもらい、さっぱり。


帰りしな、「Title」へ。以前、一目見て気になっていた、エヴァン・トンプソン『仏教は科学なのか』を入手。トンプソンはヴァレラと共に『身体化された心』を記している。「気になる」ということは、こういうことなのかも知れない。


夜は水炊き。生活クラブの水炊きセット(スープとお肉)に入っていた、鳥モモの肉塊がものすごい。ゴロゴロ。食べ過ぎた。


夜は、22時には床に就いて、新村隆慶さんの楽曲を聴きつつ、本読み。『生成と消滅のー』の第Ⅱ部 日本編へ。お話は万葉集から。なんだか、最近、短歌に興味を持っているけど、ルーツの和歌について、こういうところで、またこんにちはするのも、面白い。


早々に眠たくなり、早めに就寝。

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