[24-02]:memento mori
7月が閉じる。
その前に記しておいた方がよいと、そう思った。
22年前の2002年の旅行では、けんたろうとは、バンコクで会って、その大都会の喧騒やら近隣リゾートのパタヤやらを、ふらふらした。
彼とは確か、2000年にインド北部、デリーからカルカッタまで、一緒に旅をしている。インドは、やはりというか、「死」の香りが、日本に比べて濃い国だった。
インドとタイ、全く違う国だけど、一緒に旅行が出来た数日は、貴重なモノとして、しっかりと自分の中に刻み込まれている。
その、けんたろうと、7/26(金)に会った。彼の行きつけの小さな居酒屋で。
ふたりで、くさやなどをつまみつつ、日本酒を傾けたり。穏やかな時間だった。
頬杖つきつつ、四方山話をする中、話題はいつの間にか、「死」にと言うものについて行き着いていた。
随分と長い間、「死」について語り合っていた気がする。
医師である彼は、職業柄、日常的に「死」と向き合っている。
が、そうでもない限り、一般的には我々、日本人は、その生活において、「死」と言うものから遠ざかった暮らし方をする様になって久しい。
「死」にまつわる風習が、加速度的に形骸化して、失われつつある。
が、「死」は必然的に全ての人に訪れる。否応なしに。粛然として。
どのようにしたら、節度を持って「死」と相対できるか。ーそんなことを話した。答えは出ない。
「メメント・モリ」(死を忘れることなかれ)
22年前、24歳の誕生日に、「人生仮に72まで生きるとして、それを3日間に置き換えると、丁度2日目が始まったところ」と記していた。
もはや、その2日目も、徐々に終わりに近づきつつある。
そして、そもそも、3日目なんて無いかも知れないのである。
「メメント・モリ」(死を忘れることなかれ)
22年の歳月。
主に社会に出てからのあれやこれが降り積もり、自分の中で地層を形成している。
それ以前の、24年の歳月とともに。
22年の歳月。24年の歳月。
時間って一体なんだろうか。
結局、時間って、自分自身でしかないのではなかろうか。
「今まで」と、「これから」。
その「あわい」に在る、今。
そして、本当は、「今」というもの、唯、それだけが在るのではなかろうか。
降り積もった「今まで」を自分の中に感じて、そして、「これから」の中にあるであろう「死」を想う。
そうやって「今」を生きて行けたら、と思う。
簡単じゃないけれども、そういう思索とともに、[24-02]を閉じたい。
2024年7月の終わりに。
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