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[生汁日乗]責任は、会社ではなくこの生や世界に持つもの:2024年11月3日(日)



晴天。秋晴れ。

今日もシラスと卵かけご飯を堪能。辛子明太子でおかわり。生活クラブの食材ばんざい。

哲椀の第11椀で相方の棚さんが紹介してくれていた、「ゆらゆら帝国」を聴く。なんだこれ、格好良い。じわじわ聴きたい。

ベースの亀川さんは今年、亡くなってしまったそう。ご冥福を祈る。色んな人が逝く。タイ料理屋「ぷあん」に行きたくなる。

実家から、栗ごはん、酢鶏、ニシンの山椒煮が届く。有り難い。有り難い。有り難う。

娘さんの美術授業の作品が展示されたとのことで、セシオン杉並の中学校連合文化祭へ。東高円寺なんていつぶりだろうか。セシオン杉並はとても立派な施設だった。中学生ながらも素敵な作品が散見され、アートって良いなと思う。

荻窪で買い物におつきあいし、夕刻帰宅。

夜、実家から届いた、あれこれで夕食。ほんと助かる。

今日も皆でブラタモリを鑑賞。昨日の伏見に続き、本日は淀。土地の歴史っておもしろい。

寝る前に、ようやくほっと本を読む。柿内正午『会社員の哲学』読了。これは、かなりグっとくる一冊だった。

勘違いされがちだが、会社は社会そのものではない。なんなら社会に参与できるものでもないかもしれない。会社の不正よりも、社会の不正に声を上げるべきだ。会社の責任をその構成員が個人として引き受ける必要はない。あなたは会社ではないからだ。会社の責任は会社が取ればいい。あなたはあなたとしての責任を引き受け、果たすべきだ。会社内での「責任感」というレトリックに騙されては いけない。会社内で果たす責任など、結局は会社によって徴収され、会社の利益に寄与するだけのもので、あなた個人の生の充実や、社会の改善そのものに影響を与えるものではない。責任は、会社ではなくこの生や世界に持つものだ。会社での労働はなるべく体力や気力を節約し、時に盗み取り、よりよい世界に向けての取り組みに投入しようではないか。

柿内正午『会社員の哲学』

先日読んだ三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか 』にも通底する話が書いてあったが、「会社」だけが自己実現の場では無い。というか、むしろ会社で自己実現するコトは多くの人にとって困難なコトである。にも関わらず、会社(労働)で自己実現するべし、という思想は広く人々に内面化されている。

そして、かく言う私もしっかりとその「思い込み」に苛まれていた。自分の仕事に社会的価値が見出せず、苦しんでいた。

その苦しみ、その先入観の一部が、この一冊を読了して、そっと成仏したような、そんな気もした。あくまで、まだ一部だと想うけど。きっと、まだまだ、根強く、深く、何かが巣食っているのだと思う。だけど、それでも心の片隅がフッと楽になった気がする。

「責任は、会社ではなくこの生や世界に持つもの」、なのだ。

関連してミッシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』にもいつか触れてみたい。

明日も休日。素晴らしい。

そういえば、トロールの森をやっているんだった。行けるかな。

森と言えば、今朝の東京新聞の一面の記事。東京23区の「樹冠被覆率」(樹木の枝葉で覆われた土地面積の割合)が2013年の9.2%から22年には7.3%に減少したらしい。9年間で東京ドーム256個分の面積。なかでも、杉並区は最も減少が大きく、39.5%も減ったとのことで、戸建分譲による屋敷林の伐採などが響いている。杉並のこの辺りも、緑が多いことがとてま気に入っていたのだけれど、スプロール現象というものは、未だに止まらず、その無秩序な力を振い続けている。ニューヨークやバルセロナなどの世界の都市が樹冠被覆率30%を目指す中、東京都は当該指標値での数値目標設定を避けている。改めてグリーンインフラのことを思う。100年かけて変えて来てしまった環境を、元に戻して行くのにはそれ以上かかるはず。だのに、未だに昭和の思考で宅地開発が進められている。そして、そう言うことに関心の薄い都政。それは、つまりは、我々の生き写しなのであります。政治にモノを問うて行く、その問い立てを出来るようになって行きたい。

政治に問う、と言えば選挙。同じく東京新聞より。内田樹さんの投稿を引きつつ筆を置く。

今の米国はシリアスな国民的分断のうちにあるけれども、それは有権者たちが「アメリカ」という名を持つ幻想的な共同体の利益よりも、今自分たちが帰属しているリアルな国内集団の利益を優先するよう になったからである。現に、大統領 選の報道を読むと、いずれの陣営でも、有権者たちは「自己利益を最大化してくれる候補者」に投票すると 明言している。「米国の国益」には候補者たちさえ修辞的かつ予言的に (私が勝てば結果的に米国は栄える であろう)しか言及されない。米市民たちがこの現状を恥じることがな ければ、米国の民主政に明るい未来はないだろうと私は思う。
近代市民社会は、私権の一部、私財の一部を手放し、それを公共に負託する方が、成員たちが自己利益の 最大化を求めて喉笛を掻き斬り合うよりは長期的には自己利益を安定的に確保できるという合理的判断の上に成立した。ロックもホッブズもそう説いている。公共の利益と市民の 自己利益は短期的には相反しても、長期的には一致する。だから、選挙 結果にどの党派も、どの個人も等しく不満顔というのは「よいこと」なのである。「宙づり議会」は日本の 民主政の成熟のための第一歩になる 可能性がある。できるだけ物静かな 口調で政党間の交渉と対話が続くことを私は願っている。

東京新聞2024年11月3日「時代を読む」 
内田樹『不満顔の民主政』

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