燕市吉田地区3|息子ではない息子、父親ではない父親
(「燕市吉田地区2」から続く)
拠点に着いたときは、すでに夜だった。しかし、今日はよく歩いた。おかげで吉田駅周辺の地理が徐々に把握されてきた。また一つ、これまで知らなかった町の地図を描けていることがどこか誇らしい。帰り道で見つけた中華料理屋で食べた鶏肉とカシューナッツ炒めの味が舌の上で後を引き、一日の幸福な締めくくりを演出していた。
ガラス戸を引き、土間へ入る。昨晩と同じ景色が、まるで違うようである。細い廊下を進み急な階段を登ると自分の部屋があること、この家には家守としてあの顔あの声の田中さんが住んでいることを知っているから。勝手知ったる気分の私は、靴を脱ぎ、家に上がった。
と、畳部屋のこたつに見知らぬ先客がいるではないか。恰幅の良い初老の男性が本を読みながらくつろいでいる。
この家が私のみの家であれば非常事態であるわけだが、ここはADDressの拠点。勝手知ったる気分がはやりすぎたせいか思わずぎょっとしてしまったが、なんのことはない、空いていた一部屋に泊まる会員さんであろう。
本を置いた彼と眼が合った。なぜかはにかんだような笑みを一瞬浮かべる。そして、どちらからともなく、こんばんは、と口を開く。礼儀正しい人に悪人はいるまい。挨拶が縮める距離は、思っているよりも長いのだ。
「こたつ、使います?」
座布団に坐り、ありがたくこたつに足先を突っ込んだ。
それを待って、彼は、星野といいます、と名乗った。メーカー系の会社を辞し、日本を周る生活を初めて一カ月ほど経つという。
「早期リタイアしちゃったんです」
星野さんはそう言って、もうだいぶ働きましたから、と笑う。
新卒から途切れず勤続三十年以上。その時間は、生まれて二十四年、働きはじめて半年の私にとって、未知の巨大生物のような得体の知れなさがあった。数量としては理解できても、それがいったいどういうことなのかの想像がつかない。彼が発した「勤続三十年」という五文字は、自分の内側にとりこみようがなくて、二人の間の中空をぷかぷか漂っていた。
彼がもっとも饒舌になるのは、二人の息子と一人の娘のことだった。特に、いま大学生で、自分と同じ車という趣味を持つ三男については、話が尽きない。ずっとダラダラ過ごしているくらいなら旅にでも出たらいい、だとか。好みの車の系統が似ているがまだまだアイツはわかってないので教えてやりたい、だとか。すべてが、裏返せば愛だった。いや、愛はまったく表にあふれ出していた。
しかし、それを子供と同世代の私(長男と長女の間の年齢のようだった)、しかもつい先ほど会ったばかりの私にここまで話してくれるのは、どういうわけなのだろうか。星野さんと私のあいだに生じているこの奇妙な繋がりは、いったいなんなのだろうか。それは、妻に話すのとも、自分の親に話すのとも、同世代の子供がいる同僚に話すのとも、きっと違う。現実的な相談でも、蓄積した愚痴でも、子煩悩な自慢でも、きっとない。
当然、同様の繋がりは私の視点から見ても生じている。この繋がりは、星野さんとの間に限らず、親世代の人とじっくり話す機会にときおり見られる。そういった機会は、多拠点での生活をしていると実に多いのだ。なぜ、私は、親にしか思っていないが親だけには言わないような思いを、素直にさらけ出すことになるのだろうか。
素直に。なるほどそうだ、これは素直な繋がりなのだ。
私たちは、誰かに面することで、何かを思う。しかし、それをその誰かに素直に言えないことがある。素直に言うには、その誰かに似て、その誰かではない、別の誰かが必要なときもあるに違いない。
星野さんにとって、私は当然息子ではない。しかしそれと同時に、この場においては、息子なのだ。星野さんは、私に映る息子に面しているのだ。その意味で、私はいわばスクリーンである。それも、映像に似たスクリーンである。
「いまはね、下見も兼ねてるんです」
ふと星野さんがそう切り出した。なんのです?と訊ねる。
「あと数年したら子育ても終わりでしょう。そしたら妻と日本を周ろうかなって」
愛はまったく表に満ちあふれている。私は、まったく距離感をつかめない三十年後の、理想の在り方のひとつを見たような思いになった。
翌朝、星野さんは旅立っていった。出発の前、土間に設置されていた卓球台で卓球をした。テニスが趣味だからか、筋が良かった。学生時代に卓球部だった私としては、負けるわけにはいかない。時折、大人げないサーブを出して、点を稼いだ。それはまるで父親と過ごす朝だった。
(「燕市吉田地区4」へ続く)
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