褒めてもいいですか?
私がまだニューヨークにいたとき、近くのミュージアムで日本映画の試写会があり、見に行った。古い映画だったことは覚えているが、タイトルは忘れてしまった。映画の前か後にその映画に出ていた仲代達矢さんの講演があり、プロの通訳者である友人(アメリカ人女性)が通訳を担当した。
ピシッとスーツを着た友人はステージ上で仲代さんの隣の椅子に腰掛け、通訳をしていた。彼女はタイトスカートを履いており、膝から下が見えた。その、スポーツで鍛えたスッと伸びた脚がとてもかっこよかった。
この講演の後しばらくして彼女に会ったとき、「この間の通訳、すごくよかったね。それにあなたの脚がとてもきれいだった」と言ったら、彼女は照れながら「そうですか?ありがとう」と言った。そして私はこう付け加えた。
「女どうしだから、『脚がきれいだね』と言ってもセクハラにならないよね?」
これが7、8年前のことだ。ニューヨークでは気の置けない友人知人の間ではともかく、公共の場や職場ではセクハラ表現をしないようにみんなかなり気をつけていた。会社を経営しているある日本人男性は、「オレなんかが『その服似合うね』と言ったらセクハラと言われかねないから、女子社員に対しては、外見や着ているものに対して絶対何も言わないことにしている」と断言していた。
セクハラは男性から女性に対してだけじゃなく、もちろん女性から男性へのセクハラもある。じゃあ、同性に対するセクハラは?
かつてはセクハラは異性間で問題になった。でも、同性愛が一般的に認知されるようになり、本人の性認識が女性なのか男性なのか外見だけからではわからないこともある。そうなると、セクハラの定義もよくわからなくなってくる。
前述のシチュエーションで、同性愛者ではない私が同性に対して「脚がきれいね」というのと、同性愛者の私が「脚がきれいね」というのとでは意味合いが違ってくるだろうし、さらに、私が同性愛者である場合、そのことを友人が知らないのと知っているのとでも、彼女の受け止め方は違ってくるだろう。反対に彼女が同性愛者であったら、また話は違ってくる。
同性の友人から「脚がきれいね」と言われたら「ありがとう」ですむだろうが、同性の同性愛者から「脚がきれいね」と言われた場合は微妙だ。セクハラになる可能性もある。
面倒なことを避けたいなら、前述の日本人男性のように他人の外見に関しては、相手が同性であっても何も言わないのが正解だろう。そうすれば、「その言葉はセクハラだ」と言われることはない。
でも、私はそういうのは好きじゃない。おいしいものを食べたらおいしいと言いたいし、美しい景色を見たら美しいと言いたいし、面白い映画を見たら面白かったと言いたい。TPOや相手との関係は考慮するけれど、相手が友人知人なら、「きれいな脚!」とか、「あなたの指、きれいね」とか、「きれいな目ですね」とか、「きれいな声だなあ」とか、「その服、とても似合ってますね」とか、私は言いたい。
そういうことも全て感動で、大きくても小さくても、感動を表現したいと思うから。もちろん、相手がそれを不快に思うと知っていたら言わないが。
そう思う反面、たとえ褒め言葉であって他意はまったくないとしても、人の外見に関して何か言うべきではないかも知れない、という気持ちが以前より強くなっていることも否定できない。
人の見た目はほとんどがDNAで決まる。ダイエットするとか、お化粧を練習して上手になるとか、自分に似合った服を選ぶとか、ある程度努力で見た目をよくすることは可能だが、やっぱりDNAには敵わない。自分の意思や努力ではどうにもならないものを褒める(他人より優れていると認める)のはいかがなものか、と言う人はいるだろうし、そういう人の気持ちもわかる。
誰かの外見を褒めるとき、いつもどこかで「私はこの人を美しいとか、かっこいいとか言うことで、そうではない人に対して失礼なことをしているのではないか」という意識が働く。ほとんどすべての形容詞には反対の意味を表す言葉がある。大きいには小さいが、美しいには醜いが、豊かには貧しいが、おいしいにはまずいがあるように。
私が「きれい」と誰かを褒めるには、自分を含め、そうではない人がいるということが前提になっている。すべての形容詞は他との差異を表現するためにあり、故に常に差別を孕んでいるとも言える。
見た目だけでなく、「頭がいい」も「足が速い」も「痩せている」も「歌が上手」も、それを言った途端に、「頭が良くない人」、「足が遅い人」、「太っている人」、「歌が下手な人」を無意識的に差別することになると言えなくもない。
ほとんどの場合、褒め言葉は他人と比較することが前提になっている。その人が頑張った結果、試験に合格したり、仕事で認められたり、ダイエットに成功したりした場合は、他人とではなくその人の過去と現在を比べているので差別にはならないが、「成績がいい」にしろ、「歌が上手」にしろ、他人より優れているという意味の褒め言葉は必ず「そうではない人」との比較の上で成り立っている。
そんなことを考えると、無邪気に人を褒められなくなってくる。こんなことを考えるようになったのは、今のポリティカル・コレクトネスが不自然に行きすぎているように感じるからかもしれない。
らうす・こんぶ/仕事は日本語を教えたり、日本語で書いたりすること。21年間のニューヨーク生活に終止符を打ち、東京在住。やっぱり日本語で話したり、書いたり、読んだり、考えたりするのがいちばん気持ちいいので、これからはもっと日本語と深く関わっていきたい。
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