『薔薇の名前』
映画版を最初の日本公開の時(1987年)に観て以来、この重厚で多様なテーマを内包した本格ミステリーのことは片時も忘れることはありませんでしたが、原作本が出た際に上下2巻それぞれ3cmほどもあるボリュームに恐れをなして原作には挑戦せずに済ませてきました。
「12ヶ月のシネマリレー」でレストア版がラインナップされたのを機に、罪深い我が人生もとうに折り返しを過ぎ、頭に白いものが目立つこの歳になって、ようやくこの驚くべき書物を手にする機会を得たのでした。
原作を読み始めてまず実感したのは、映画版でストーリーは承知しているというものの、原作は読み物として大変読みやすく、また当然のことながら映画より更にさまざまなテーマを奥深くまで掘り下げている、という点でした。
原作も映画のナレーションのとおりアドソの回想による手記、という体裁となっていますが、原作の冒頭にはアドソによるプロローグの前に、“作者”による「手記だ、当然のことながら」と題されたプロローグがあり、“作者”がアドソの手記の“原本”を手に入れるまでの経緯が簡潔に記されています。
それによれば、もともとは14世紀にベネディクト会のドイツ人修道士アドソが羊皮紙にラテン語で書いた手記を1600年代に写筆したものが後の時代に“ネオゴシック調の晦渋なフランス語”に訳出され、それを“作者”がイタリア語に翻訳した、とのこと。後になってアドソの原典から翻訳されたと思しきグルジア語版などが発見されるなどして、“作者”が翻訳した内容は後の世の注釈や改竄部分までも内包する可能性があった点について自ら指摘を行っています。
要するに14世紀から細々と伝えられてきたこの物語を発掘し、改めて現代に書物として出版した、という体になっているわけです。
もちろん全てウンベルト・エーコによる創作なわけですが、物語の随所に挿入されるキリスト教世界の出来事や文献についての記述にもっともらしい導入を加える効果はあると思います。
物語の本編であるアドソの手記は前述のような設定に拘束されることなく、まだ見習い修道士であった18歳ごろの体験をもとにそれを目撃したその場で記したような臨場感と現代的感覚でリアルに描き記したもので、当然のこととはいえ、それは古文書のような難解さや持って回った表現などはなく、極めて素直で分かりやすい表現に徹して書かれています。
これはウンベルト・エーコの原文そのものが明快な記述によるものか、それとも日本語訳が優れているのか峻別の難しいところですが、おそらく両方が優れているのだということではないか、と感じます。
冒頭の“作者”のプロローグにもあるとおり、この物語は書物についての物語であり、推理小説という体でありながら、ここで扱われるテーマは幅広く、14世紀初頭のキリスト教世界における異端の定義と修道士たちの覇権争い、ヨーロッパ最大の図書館があるとされる修道院での書物の存在意義とその知識が無制限に拡散する危険性について(その中の中心的な問題として“笑い”についてのキリスト教会的解釈がある)といった問題が、作者の無制限な自由意志によって推理小説としての枠から大きく逸脱するまでに縦横無尽に語られていくのです。
ともすると、この小説のあらすじが殺人事件の究明という主要なプロットであることを忘れてしまうまでに何ページにも亘ってこうしたテーマが語られていく部分は、人によっては本道から外れた横道と思うところもあるのではないか、と思います。
しかし、そうしたリミッターを解除した自由な思考の記述がこの小説を単なる推理小説の枠をはみ出し、14世紀のキリスト教世界についての多様なテーマを彫り下げる、知的好奇心を満足させるに充分な要素となっていることは間違いないと思います。
先に記したような明快な記述と文体がこうした箇所でも苦も無く読めるのは大いにありがたいところです。
物語は映画の進行と大変良く似ており、映画のための改変は一部の登場人物の省略・統合と事件を巡る手掛かりの発見プロセスの統合といった部分があるにせよ、映画版は大変原作に忠実に作られていると感じます。
中世の現代文明とは明らかに異なる不便な生活や非科学的、教会を頂点とする世俗社会との格差や農奴の貧しい生活などといったイメージは原作のもつ雰囲気を非常に忠実に伝えていると感じます。
この作品の主要なテーマは推理小説とはいいながら、その実は14世紀のキリスト教世界を巡るあれやこれやにあるわけですが、この作品を推理小説の王道たらしめているのは言うまでもなくバスカヴィルのウィリアムと弟子のアドソという二人組の凹凸探偵が難解な事件に挑む、という、シャーロック・ホームズのオマージュあるいはエピゴーネンというかパスティーシュというべきスタイルをとっていることにあります。
映画でもウィリアムの明晰な頭脳と推理力は随所に発揮されていますが、原作においてはその博学、公正さ、14世紀にあるまじき科学に対する現代的心酔、宗教家としての(異端とされかねない)当時的に際どい立ち位置、アドソに対する師としての厳格さと父親のような寛大さといった多くの人間的魅力に満ちている点が、この作品自体の大きな魅力といえるでしょう。
修道院での犯人捜し以前にバスカヴィルのウィリアムが帯びているこの修道院に来た大目的である宗教論争と世俗世界と教皇の和解の工作や、少数派の修道士たちが直面する異端として排除される危険を回避する、という極めて難しい任務にどのように対処するのか?という問題は殺人事件の捜査と並行して中盤での大きなポイントとなっていますが、ベルナール・ギーの登場とその狡猾なパーソナリティは映画のF・マーリー・エイブラハムの役柄通りのイメージであり、修道院での宗教論争を政治的闘争の場として最大限に利用しようとする剛腕ぶりは時間的制約のある映画と異なり、更に強化された印象があります。
宗教論争とベルナール・ギーによるニセの犯人の捕縛のあと、物語は映画とはやや異なる展開を見せます。
特に殺人事件の原因と犯行の動機に繋がる割と大きな要素の出現については、このような大きく歴史のある修道院では当然起こり得たであろう重要な要素として当然浮上して然るべき問題であり、映画はおそらく尺の都合によってそこは踏み込まない選択をしたのであろうと推察されます。
映画を観た人が原作を読む場合も、ここに至って映画と異なる要素が登場することで、結末についての不確定要素が再浮上し、結末まで興味を持続させることができるのです。
それ以前に、物語が熱を帯びて多くの出来事が重層的に進行する展開は、映画の視聴有無とは関わりなく、読み物としての吸引力がページをめくることももどかしいまでに高まって、途中で止めることが難しいのです。
映画の感興に匹敵する物語のクライマックスとそれに続くエピローグは、この膨大な情報量の物語の締め括りとして滋味深く、老境に入ったアドソの当時を巡る想いの深さを大いに実感するのでした。
映画と原作の最後に掲げられるラテン語の詩句
「過ギニシ薔薇ハタダ名前ノミ、虚シキソノ名ガ今ニ残レリ」
“stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus.”
薔薇という植物の名前はこの名前があるから薔薇という植物を意識できるのか、薔薇という植物はどのような名前であっても薔薇であって、名前が変わっても人は薔薇という植物を変わらず認知し続ける、というような「実在論」と「唯名論」という、所謂「薔薇の名前論争」については、ここでは立ち入りませんが、この詩句の印象は、映画の最後に掲げられるものと、原作の最後に掲げられるものとでは、その印象が大きく異なると感じます。
それは当然映画と原作では登場人物の末路や描かれ方が大きく異なっていて、その結果の印象に大きく左右されるからだと思いますが、両方をそれぞれ堪能すると、その印象はそれぞれで異なっていてもおかしくない、というか、むしろそうなるべく物語のつくりが変更されているのだと考えます。
ネタバレに相当するのでその違いについて具体的には触れませんが、やはりそれぞれに印象的なエンディングであると、改めて思うのでした。
やはり、映画も原作も、紛れもない傑作なのだと思いを新たにしました。