リストカッターとしてのアイデンティティとは
リストカッターとしてのアイデンティティ、なんと恐ろしい響きなのでしょうか。
実はこの言葉はWikipediaが元であり、要は「それがあると、自傷行為をやめるのが困難になりがちだ」というものだそうで。
この言葉を他のリストカッター、若しくは自傷行為をする人 (そして或いはそれらをエンタメにして生きている人。私とかね) がどう捉えるのか。
私はこの言葉に強い恐怖を感じた。過去から続く自分が、其れに全く当て嵌っているからだ。 「手首に傷がない自分はなんの価値もない人間だ」 これは何か違う気がする。 ではこちらは? 「手首に傷がない自分は他者と比べ、特別な何かがなく、周囲に気にかけてもらえる人間では無い」 きっとこれが本音だ。
そう、一貫して 「特別じゃないひと」 になるのが怖いのです。 (然し、実際多くの方がこれに当て嵌るのではないだろうか)
家庭環境の悪い、悪かった人は特別であれば、凡でなければもっと良い環境だったのだ、と自己批判に持っていくことであの日の苦しみを忘れようと努力して生きているのが多い。 特別でありたいという願望はそれの一種であるのだ!そして、その中で自傷行為に出会う。 友人知人がやっていない、 簡単に外には出せない暗がりの中の行動。 剃刀を身体にあててみるとか、市販されている薬を飲んでみるとか、そんなちっぽけな行動で自分を特別視したい小心者? 否、 私は其の考えを捨てたい。そんなちっぽけな行動くらいしか、する気力がないのである。 だから、大半の自傷行為者は世間にアピールなぞせず (若しくは金属の板一枚でできる行動のみをして) 安易な承認欲求満たしに走っているのだ。
つまり、リストカッターとしてのアイデンティティを一度手に入れてしまえば安易に其れを手放し、元の (自らが嫌い忌々しいと忌避した) 在るべき姿の自分に戻る恐怖に駆られ、リストカットを続ける。これが自傷行為に依存する人間の大まかな心理だと、私は考える。