矢野絢子さんのライブに行ってきました3

ライブ中のMCで、今回の『いちばん小さな海』のアルバムは物販もあるということを仰っていました。
あったらいいな、あったら絶対買おう、と思っていたのでとても嬉しかったです。
『いちばん小さな海』は持っていなかったし、配信もされていないアルバムなのでした。

最後の一曲のあとはもちろんアンコールが起こり、会場にいらっしゃったパーカッションの方とトランペットの演奏者の方と、3人で演奏してくださいました。
曲は次の新しいアルバムの中からの曲でした。
とても陽気で楽しい曲で、最後は明るい感じで終わらせてくれるのだなぁと感動しました。

心の底から、このライブが永遠に続けばいいのにと思いました。
最近自分はどうも落ち込むことが多くて、楽しいことがあっても常に気持ちは晴れないような鬱々とした日々を過ごしていました。
これじゃあダメだと思って、人と会って話したり無理やり予定を作って行動するようにしていました。
それでなんとか自分を繋ぎ止めて、この矢野絢子さんのライブまでの日々を乗り切ってきました。
それくらい楽しみにしていたライブで、矢野さんは期待以上の感動と、音楽に触れることの喜び、そして生きていくこと大切さを教えてくれました。

悩みがあって他人に相談すれば、親しい人であればみんな僕を励ましたり勇気付けたりしてくれます。
それはもちろんとても嬉しいことで、その瞬間は気持ちが軽くなるし感謝しかないです。
でもおそらく自分のやっかいで捻くれた性格上、酷く落ち込んでいる気分の時に必要な優しさとは、そういう類いのものでは無いんだなとわかりました。
温かくて柔らかくてなんでも許容して包み込んでくれる優しさというよりも、いまの僕に必要だったのは、どうしようもなく持ち続ける自分の黒い部分、他人に対する憎しみや嫌悪感さえも、それでもいいのだと認めて強くきつく縛り付けるような鋭利な優しさでした。
矢野さんのオリジナリティに溢れた歌と、素朴さと熟成が入り混じったような奥行きのある歌声にはそういった響きがありました。

アンコールの曲が終わり、一段と大きな拍手の中、矢野さんはステージの袖へと帰っていかれました。
中学生の頃から好きだった矢野さん。
この歳になった今また、あなたに救っていただきました。
またライブに来ます。
あなたを好きでよかったです。
そんな思いで僕は最後まで拍手し続けました。

ライブハウス全体の照明が明るくなり、通常のBGMが流れ出しました。
夢のような時間の終わりを実感させられました。
僕はため息を吐いて、でもまだ高揚感がある自分の心を自覚しながら立ち上がりました。
ライブ中にチビチビ飲んでいたカシスオレンジの最後の一口を飲み干して、カウンターにコップを返しに行きます。
物販はカウンターから少し離れた右手の奥、出入口とは反対側にありました。

やはり僕と同じように、今日聴いたこのアルバムを持っていなかった人は多かったようで、物販の机に並ぶ列がもう既にできていました。
アルバムって3000円くらいだよな、財布に現金入ってたかな、とちょっと不安になりながらも物販のところへ足を向けて列に並ぶと、すぐ後ろから「ごめんなさーい」という聴き慣れた声がしました。
矢野さんでした。先ほどまでずっと聴いていた声のかたが間近にいました。
矢野さんは列に並ぶ人たちを追い越して先頭の位置へと向かっていくところでした。
僕は驚き、小さく短く「わ」と言いながら矢野さんのために道を開けました。
人は密集していてかなり身体を小さくしないと、矢野さんに自分の身体が触れてしまいます。
僕は必死で身体をすぼめて矢野さんに触れないように努めました。

目の前を矢野さんが通り過ぎていきます。
先ほども目の前に来てくれましたが、それはライブパフォーマンス中で、いま目の前にいるのは完全に一人の女性としての矢野絢子さんでした。
いや変な意味じゃ無いです。
普通の、一般の、自分と同じ人間としての、矢野絢子さん、ということです。
まあ、いやそう言ってもよくわかんないな。

矢野さんは本当にとても小柄でした。
有名人が、舞台では大きく見えるけど実際の身体はそれほど大きくない、という話はよく聴きますが、まさにそれです。
たぶん身長は僕の胸の高さぐらいまでしかありません。

列の先頭まで到達した矢野さんは黒ペンを持ち、既にアルバムを買われて列から離れたお客さんにも届くように、「買ってくれたかた、サインしますよー」と仰いました。
僕は今日何度目なのかわからないですが、心が弾みました。
矢野さんが直接サインを書いてくれる。
それ自体が嬉しいし、少なからず会話を交わせる時間があるのだと喜びました。

そんなに長い列ではないのですぐに自分の順番が来て、3000円で『いちばん小さな海』のアルバムを買いました。
その間もすぐ傍らに矢野さんがいて、何やらお話しながら前の人が買ったアルバムの盤面にサインを書いていました。
ちゃんと3000円以上お金は持っていて、ホッとしながらアルバムを購入し、次はサインの順番を待ちます。
その間もドキドキして、何を話そうかと色々と考えました。

でも考える時間もあまり無く、すぐに順番が回ってきて矢野さんと目が合いました。
「お願いします」と緊張気味に言って、アルバムのパッケージを開いて差し出しました。
「ありがとう」と人懐っこい微笑みを浮かべて受け取っていただきました。
「盤面でいい?」と続けて仰って、あ、どうしようと僕は思いました。
前の人が盤面に書いてもらっていたから、勝手にそういうものなんだと思ってパッケージを開いてお渡ししてしまったけど、別にパッケージの表面でも良かったし、歌詞カードに書いてもらうのもとても良いような気もしました。
でもそれを考えて悩むのも時間を取らせてしまって申し訳ない気がして、問われた僕は瞬時に「はいっ、、!」と自分でコントロールできてない大きいんだか小さいんだか意味のわからない声量で答えました。

そして「ずっとずっと大好きでした!今日はめちゃくちゃ感動しました!僕は最近すごく落ち込んでいたんですけどめっちゃ元気でました!矢野さんおかげでまだ生きていこうと思えました!マジやばいです!オレンジの髪色いいですね!超好きです!歌うますぎ!」と伝えようとしたら、「お名前は?」と先にまた問われました。
え、宛名も書いていただけるんですね、とまた例によって心が弾み、「岡部です、岡部成司です」と劇団ひとりさんが二枚目キャラのコントで言う自己紹介みたいに言ってしまって恥ずかしくなりました。

盤面に「オカベセイジさんへ」と書いてくれる矢野さん。
とても背が小さくて、こちらが見下ろしているのが不思議です。
こんなに近くに憧れの方がいる。
僕はまた瞬時に、一度冷静になろうと努めました。
ちゃんと、しっかりと、矢野さんが喜んでくれそうな、必要なことだけ伝えるんだ。

「ずっと以前から大好きでした」
「わ〜ありがとう」
「でもライブは今回初めてで」
「ほんとう?」
「はい、とても感動したし楽しかったです」
「わ〜よかったぁ」
「また次のライブも来ます」
「うん!是非また来て」
「はい!」

ありきたりだけどちゃんと落ち着いて、言葉にして想いを伝えられました。
矢野さんも終始笑顔で接してくれて、喜んでいただけたと思います。
盤面に書かれた世界に一つだけのサインがとても嬉しくて、これは宝物だと思いました。
「握手していただけますか?」
と、最後にこれは流石に照れながら言うと、「もちろん!」と笑って、握手してくれました。
本当に本当に嬉しかったです。
本当に本当に優しくて可愛らしくて、でも強くて繊細で大らかで時に豪快で、美しいお方でした。

ただ生で演奏を見られて歌声を聴けるだけで嬉しいのに、直接お話しできてサインもいただけて握手もできるなんて。
その日の会場で自分が一番感激していた自信があります。
他の人にはない高揚が自分だけにあったのではないかと思います。

僕にとってはとても偉大な方だから、正直こういう規模でライブをやっていることに疑問を持ちます。
みんなこの方の凄さをわかってないぞ、もっと大きな会場でライブをやって満員御礼となるべきだ、と思います。
でもそんな大規模なライブだったら今回はコロナで中止になっていたかもしれませんし、終演後に直接サインをいただくなんてできなかったでしょう。
あなたを好きでいて良かった。
ご本人からしたらもっと大きな会場でライブをしたいのかもしれませんが、僕は、たまたまずっと前から大好きだったアーティストの方が、こういう規模でのライブをやっていただけたというのが、なんというか総合的に全てにおいて良いことで、矢野絢子さんを好きでいた自分のことも肯定できるように感じるし、とにかくあなたを好きでいて良かったと思いました。

サインをいただいたあと、まだドキドキしながらドアを出て、階段を上がり地上に出ました。
いただいたサインを眺めたり、今日の矢野さんの歌声を思い出したりしながら駅まで向かいました。
すっかり暗くなり冷えた外気も心地良く感じられました。

僕は夜空を見上げて真っ直ぐ歩いて帰りました。

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