交流
中学の元カノとサイゼに行った。
就職で関東に旅立った彼女とは、
帰省のタイミングで会うことが多い。
いつもなら3人でサイゼだが、
1人は神戸旅行らしく、今回は2人だった。
まずはお互いの現状報告。
彼女は半年前に勤務地が変わったらしく、
同じ会社でありながら仕事の進め方が異なるようで、
かなり苦労しているとのことだった。
仕事には「個人技」と「チームプレー」が存在する。
彼女は専らチームプレーに長けているようで、
右も左も分からないまま、個人に一任される今の職場は、
彼女にとって苦しいらしい。
「社会人ってどうやって友達を作ったらいいと思う?」
勤務地の変更で電車通勤となった彼女は、
平日夜でも呑みに行く機会が増えたらしく、
人脈が広がることに価値を感じていた。
一方で、友達が出来ずにいるとのこと。
新天地での彼女の飛躍を祈るばかりである。
さて、友達を作るといえば、あまり他人事でもない。
僕はいま、職場の組合で役職を担っている。
来たる3月上旬、
「冬の交流会」が迫っているのだ。
この交流会の企画をしなければならない。
例年行事ではあるものの、感染症の影響もあり、
近年の開催事情は厳しい。
新たな試みもあったが、ことごとく失敗に終わっている。
そして今年度は、おそらく初の試みであるボードゲーム大会を計画している。
『交流会』
それは交流を生み出す場であると同時に、促す場でなければならず、加えて、後の関係を継続させる場でなければならない。
この高すぎるハードルを越えた試しはない。
ところで、実は「夏の交流会」もある。
例年バレーボール大会を開催しており、
数百人が参加する大人気イベントである。
だが、こちらも「交流会」という趣旨で言えば、完全に失敗している。
交流会を通じて、新たな交流を生み出すことすらできていないのが現状だ。
友達作りの一歩目は交流から始まる。
では、交流はどのようにして生まれるのか。
どのようにして生まれてきたのか。
根本的な話に立ち帰る時は、歴史を辿るのが手っ取り早い。
人類が交流を開始した時点が必ずあったはずだ。
分かりやすいのは「狩り」だろうか。
いつかの時代、人類は狩りを始めた。
狩りと言っても当時の対象はおおよそマンモス。
1人で挑むことは、積極的に死ぬことと同義であった。
そこで「集団」が生まれた。
マンモスを狩るには、誰かと協力する必要があったのだ。
もう少し時代を進める。僕たちが存在していた時代だ。
子どもというのはすごい生き物で、交流を生み出すことに長けた生命体だ。
ドッジボールだとか、おままごとだとか、野球だとか、鬼ごっこだとか、自ら交流せんとばかりにクラスの片っ端から声をかけている人を見たことがあるだろう。
僕たちは過去にできていたことが、
現在ではできなくなっている。
大人になる過程で、
何かを失ったに違いない。
おそらくそれは『不便』だ。
新人類は1人でマンモスを狩ることが
できなかったし、子どもの遊びには1人ではできない事が多い。
つまり「1人では出来ない」という不便さが交流の必要性を感じさせる。
考えてみれば、大人になった今でも交流を生み出す機会がある。
仕事の進め方が分からないときだ。
例えどんなに怖い上司であっても、
この時ばかりは相談せざるを得ない。
明らかに、不便の解消を目的としている。
僕たちは、大人になる過程で獲得する「能力」の代償として「不便」を失っていたのだ。
だから交流が生み出されない。
否、厳密には、生み出す必要がないのだ。
そうすると、交流会の目的を達成するために必要な要素は、自ずと決まってくる。
『不便の演出』
主催者側が全てを整えて、参加者が集まったらスタート!という状況だけは絶対に避けなければならない。
そして、大事な要素がもう一つ。
『交流会開始までに交流を生み出す』
なぜなら、今回はボードゲーム。
ここでのボードゲームは交流会の手段として機能させるべきだが、交流のない個々人の集まりで進められるボードゲームは、目的に成り下がる恐れが大きい。
関係性のない者同士がミッションを達成しようとする時、友達ではなく仲間と称される。
当然、彼らはミッションが達成されれば解散されるため、後に繋がる可能性は望めない。
これでは交流会の意味を成さない。
ということで、冬の交流会に盛り込むべき要素は2つ。
1.不便を演出すること
2.交流会開始までに交流を生み出すこと
交流会、そろそろ成功させたいですね。
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