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#連続短編小説
「水府の三門」◆道しるべ◆⑦
『白鬼王』名を呼ばれているような気がして
しばし、暗闇に耳を澄ます
虫すら眠る静か夜
横たわる又右衛門は、弧を描くように低く、蒼い閃光を放つ輪を視ていた
その足首から湧き出でるような、力強い煌めき
白き鼻じろに灰色と黄の立て筋
輝く白い・・狼か
蒼き双眼が、来る
狼は姿を消して久しいと聞く
里川はかつて狼の被害に村人たちは困り果てていた
太田と袋谷の間、平たく荒れた藪すこの道
果てなく
狼の
「水府の三門」◆道しるべ◆⑥
『狐の嫁入り』
寛政三年一人の賢者が雨宮又右衛門と入れ替わるように退官した『百姓学者として水戸藩に仕えた男』名を長久保赤水
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あのね
又右衛門さま、けっこう絵心がおありでお上手なのよ
わたくしが小さい頃お絵かきしていたら
「落書きか?」
って、笑って・・
それから一緒に夕暮れになるまで描いていた
「いばらはもっと小さい時に、又右衛門さまに抱っこして頂いたことがある」
そう聞い
「水府の三門」◆道しるべ◆⑤
『雨宮又右衛門という男』
水戸藩医に実父と実兄を持つ
次男であったためか、雨宮家の養子となる
「雨宮瑞亭」「西澤散人」の雅号を用いる
寛政三年
雨宮又右衛門(三十三歳)
水戸藩領常陸松岡郡郡奉行就任
同年水戸藩
尸罪決定後ー自死・牢死により死せる者
塩漬にした後、刑場引き出し、尸体といえど
定めにのっとり処刑の後、晒す等
見せしめの刑を廃止した
これより三年づつ
雨宮又右衛門は松岡郡・南郡・太田
「水府の三門」◆道しるべ◆ ④
水戸藩による小生瀬村虐殺の真相(小生瀬騒動)
はっきり言って、これは公の記録が水戸藩にはない
水戸藩が村人の殺戮を行ったことを、藩全体で何代にも渡って隠蔽して来たことによる
小生瀬の村人から村人へ、わらべ歌や行事の折に触れて口伝・口承されて来た言い伝えである
雨宮いばらは
『この小生瀬村虐殺事件を、いち百姓一揆などと片付けて良いものか
はたまた、自分が養子と言えど家督を継いだ雨宮家の名に
「水府の三門」◆道しるべ◆③
【鯉ヶ淵】
水戸ではダイダラボウ(ダイダラボッチ)と呼ばれる巨人、その名も三太巨人
鯉ヶ淵は三太が起き上がる時に、右手を突いて雨水が溜まって出来た
三太は常陸の国、諸沢村までやって来た
三太は南から、神様の御告げでやって来たと言う
常陸の国で南の方角なら・・もしかしたら
下総の国を挟んだ相馬の郡と、常陸の国の北相馬の郡から
来たのではないかと“いばら”は思った
三太ことダイダラボウは、
「水府の三門」◆道しるべ◆②
神奈備山と讃えているのは、神が鎮座する山自体を御神体としている
神が隠れすまう、と言ったほうが“いばら”にはしっくりくる
武蔵の国
御諸山には金の大蛇が、人によっては金の龍が棲むという
(金佐奈が採れる)金砂つまり砂鉄のことをいうのだろうが、児玉といわれる地では日照りが多い
常陸の国郡戸や金郷、金砂、久米村の川では金が砂より重く採れると言うから、干割れの山の砂金と水質の良い山の砂金では、なにか
「水府の三門」◆道しるべ◆ ①
歩くこと、五里(およそ20K=一里は約4K)
半日かかって歩いてしまった
籠にでも乗りたかったわ
昔はこの道も、もっと歩くのが難儀だったわね
今だって馬が駆けて行くから、早くどかないと蹴られても文句が言えないわ
それにしても東海道五十三次
江戸は日本橋から始まって、京の三条大橋まで五十三ヶ所の繋ぎ所がある
江戸よりもっともっと前の帝の時代には、伊勢の宿から目指す『常陸の雄薩』まで、五十五ヵ所の