ノードメモの放流/メルマガ原稿自動化作戦(1)/知的生産のフロンティア/見えなくなる好き
Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2020/09/07 第517号
○「はじめに」
ポッドキャスト最新回が配信されております。
前半は、『Re:vision』連載の電子書籍化プロジェクトのリアルな打ち合わせで、後半は「執筆がうまく進まないときにどうしているか」を語っております。
後半のポイントは、「何かを変える」ですね。
〜〜〜新連載〜〜〜
『Re:vision』と同種の「お互いさま連載」第二弾がスタートしております。
◇読書と日記の話(仮)|倉下忠憲|note
https://note.com/rashita/m/m445bb3e9371c
タイトル通り「読書」と「日記」について書いていく連載です。私が「読書」サイドを、ゆうびんやさんが「日記」サイドを書いていきますが、『Re:vision』と同じようにどこかで交点が生まれるかもしれません。
〜〜〜梅棹展開催中〜〜〜
以下のイベントがスタートしております。
感想については本号の記事で書きましたので、そちらでどうぞ。
〜〜〜電気とデザインと〜〜〜
国立国立民族学博物館の「音楽」の展示で、世界中のギターが展示されていました。さらに、ギターの歴史ということで、アコースティックギターからエレキギターへの流れも展示されていました。
で、アコースティックギターは大きさに違いはあるものの、だいたいの形は似通っています。それは「音をうまく響かせるために必要な構造」が(文化を超えて)同一だからでしょう。物理的なのです。
一方で、空気の振動を用いなくてもよくなったエレキギターは、それぞれが個性的なボディーの形状をなしています。物理的ではないのです。
もちろん、人が抱えて演奏するという点は同一なので、その点における形状の同一性はあるのですが、それでも「電気的なもの」の導入によって、デザインも変わってしまう、というのは面白い発見でした。
〜〜〜師匠と違うことを言う〜〜〜
最近、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』を読んでいます。で、彼はソクラテス→プラトンの系譜を継ぐ人です。でも、「プラトンはこういっているけど、自分はそれとは違う考えを持っている」としっかり書いています。師匠と違うことを言っているのです。
で、よくよく考えてみると、プラトンもまたソクラテスとは違うことを言っています。というか、書き言葉を残しちゃっています。これまた、違うことを言っている(やっている)のです。
で、さらに考えてみると、師匠と違うことを言っているからこそ、彼らの名前は歴史に刻まれ、それを私たちは知ることができています。もし、ソクラテスと(あるいはプラトンと)まったく同じ考えを持っているなら、その人間の著作をわざわざ参照する必要はないでしょう。違いがあるからこそ、その人の著作が改めて注目されるわけです。
そう考えると、先生や師匠の話にただただ頷いているだけでは、「知的生産者」としてはやっぱり弱いのでしょう。何か一つでも、そこに新しく付け加えること。それが、知的生産という行為のコアにあるような気がします。
〜〜〜こういう環境を作りたいの妄想的小話〜〜〜
僕は、机に座りワークスペースを立ち上げた。
「さて、メモについてもう一度考えよう」
ショートカットキーからサーチパネルを立ち上げ、memoと打ち込むと、ファイルの一覧が更新された。最近作成したmemoのキーワードを含むものが抽出されている。その中からセンターになるファイルを選び、さらに補佐になりそうなファイルも一緒にいくつかチョイスした。
一呼吸置き、ディスプレイが切り替わる。中央のウィンドウには、メモに関する考察を記したファイルが表示され、その横にはやや小さなウィンドウでmemoの記述を含むファイルが並んでいる。実際、memoなんてありふれたキーワードで検索すれば、見つかりすぎるほどファイルが見つかってしまうのだが、そこは記述の仕方で重みづけを変えられる。[memo]とさえ書いておけば、この言葉が、私にとって重要な意味を持つことが示せるのだ。たった、二文字の記号だけで、検索の精度を飛躍的向上できるのだから、なかなかすごいものだ。
僕はまず、中央のファイルを読み返した。一行読み進めるたびに、自分の脳内に以前考えていたロジックの塊がロードされていく。思考の最前線に立ち戻れる。しかし、単に再読み込みしただけではない。僕が僕であって、僕でないように、今の僕は新しい視点を得ている。過去の自分のロジックを読み返すと、その弱点が見えてくる。
僕はまず、その弱点を補強するところから、記述を始めた。
〜〜〜今週見つけた本〜〜〜
今週見つけた本を三冊紹介します。
ベタベタの自己啓発本なのですが、なぜか気になりました。たぶん「カオス」という表現が入っているからでしょう。自己啓発本は、ときに人生を非カオス的に捉えているので、その差異が気になったのだと思います。わりとゴツめの本です。
そういえば「ポピュリズム」に関する本はいくつも見かけましたし、リベラリズムを批判する本も少なくありませんが、「そもそもリベラリズムって何?」を論考した本はあまり見かけた記憶がありません。"「リベラル」なリベラリズムの再生に向けて"という一文がおかしみと共に、現状のリベラリズムの問題を伝えているように思います。
二種類の切り口からできている本です。一つは、日本の家計の統計的データについて、もう一つは、統計的データの読み解き方の実践です。新聞や経済史に登場する統計データは、ときに日常からかけ離れたもので興味を持ちにくいものですが、「家計簿」に関するデータなら広く身近なものだと言えるでしょう。
〜〜〜Q〜〜〜
さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のストレッチ代わりにでも考えてみてください。
Q. 仕事中に発生したメモは、どこに書き、どのように処理していますか。
では、メルマガ本編をスタートしましょう。
○「ノードメモの放流」 #知的生産の技術
前回は、ポイントメモの扱いにおいて文章化が有用だ、という点を確認しました。文章化して、一定のベクトルを持ったメモを、(ネットワーク性を強調するために)ノードメモと呼ぶことにしましょう。
そのノードメモの管理は、単に保存するのではなく「放流」することが肝となります。
今回はその点を検討してみましょう。
■ノードメモの性質
覚え書きメモやネタなどは、それを使用するか一定期間が経過すれば、役割を終えます。簡単に言えば、捨てたり削除したりしても問題ない(いっそ、そうした方がいい)わけです。
一方でノードメモは、それがネットワークを形成するものである以上、「使い終わったら捨てる」という運用は適しませんし、「時間が経ったら削除する」という運用も同じです。基本的には、時間と共に増加していくものだと考えるのがよいでしょう。
この点に、ノードメモの扱いの難しさが含まれています。
情報カードシステムPoICは、蓄積したカードを再生産に利用したらそれをドッグから排除します。捨てる捨てないは利用者の判断に任されていますが、普段使う場所から移動させるのです。
一方で、Evergreen Notesでは、各ノートは連結的に広がっていき、「終わり」という境界を持ちません。言ってみれば、増え続けるに任せるわけです。これはもちろん、デジタルデータが、「物理的な置き場所をほとんど必要としない」点が関係しているでしょう。
端的に言えば、「捨てないカード法」というのは、デジタルだからこそ運用できるわけです。逆に言えば、アナログの考え方は、少なくとも保管に関しては一時的に横に置いておく必要があります。同じ考え方を使わなくてもよいのです。
そうなると、「増え続ける情報とどう接するのか」という新しい問題が出てきます。アナログ時代では、「一定量になったら捨てる」を適用せざるをえなかったのですが、デジタルはそこから開放されて(あるいはその上限が飛躍的に増えて)、新しい考え方を適用できるようになりました。
とは言え、これについては、まだほとんどの人が、適切な考え方を持っていないでしょう。それほどの情報を集めた人が少ないからです。
で、個人的な体験から言えるのは、「適切な考え方」の一つが、「放流」させることです。
■情報を放流するということ
情報を「放流」する、とは何を意味するでしょうか。
一つには、情報を「自分の支配下に置かない」ことを意味します。
では、情報を「自分の支配下に置く」とは何を意味するでしょうか。
身近な例で言えば、「階層構造下に配置する」ことを意味します。つまり、情報群を認識し、把握できる状態にしておく、ということです。キーワード検索などの助けを借りず、脳だけで、求めている情報を取り出せること。「どこに、何があるのか」を把握できているようにすること。それが情報を「自分の支配下に置く」ことの意味です。
情報を自分の支配下に置いている間は、私たちはその情報を自由に扱えます。「勝手知ったる我が家」というやつです。もし対象の情報が、日常的に使役されるものならば、そうした支配もまた必要でしょう。
しかし、支配の状態を維持しようとする限り、規模の限界性がつきまといます。言い換えれば、自分が支配できる情報以上の量を扱えないのです。
たとえで考えてみましょう。社員との関係にものすごくこだわる社長さんがいるとして、その社長さんが「自分はすべての社員の顔と名前とプロフィールを覚える」と宣言したとしましょう。そうすれば、トップの理念を実現するために、誰にどう動いてもらえばいいのか、適切に判断できるからです。
非常に立派な心がけですが、もちろん、その状態を維持しようと思えば、雇える社員の数には上限が生まれ、結果的に担当できる仕事の規模も限られてしまいます。限界が定まるのです。
まったく同じではないにせよ、似たようなことは情報を扱う場合にも言えます。情報を自分の支配下に置くようにしていると、自分が支配下に置ける以上の情報は扱えなくなるのです。そして、日々増え続けていくノードメモについては、そのやり方では到底管理できません。
よって、それを手放すのです。管理することを、支配下に置くことを諦めるのです。
幸いノードメモは、仕事に必要な参考資料ではありませんし、タスクでもネタでもありません。そうした情報ならば、支配下に置いたほうが全体的な効率が高まるでしょうが、ノードメモはそれらとは違った性質を持っています。だから、同じように扱う必要はありません。
自分の支配の外に置いてあっても、大丈夫なのです。
■流す、とういこと。
もちろん、単に手放すだけでは、その情報は利用できなくなります。だからこそ、「放流」なのです。つまり、流すことが大切です。
この「流す」は、流れに沿わせることであり、循環が含意されています。放置するのではなく、いったん手放して、また帰ってくるのを待つわけです。
この点については、以下の記事でも考察しました。
アイデアはいったん流してしまう。そして、時間を置いて帰ってくるようにする。そうすることで、自分が扱える以上の量の情報(アイデア)を扱いつつ、アイデアをネットワーク的に広げていくことができます。
その際に重要なのが、前回紹介した「文章化」です。一度文章化しておけば、自分の中でその概念がある硬さを持つので、支配下においておかなくても、「そういえばあれについて以前考えたな」と思い出しやすくなりますし、仮にそうした思い出し方をしなくても、時間が経った後にその記述を読んだとき、過去の自分が何を考えていたのかを想起できるようになります。
言い換えれば、情報を手放してなお、利用できるようにするためには文章化が書かせないのです。逆に言えば、一度文章化しておけば、自分の支配下に置いておく必要は小さくなります。よって、この二つ(文章化と放流)はセットだと言えるでしょう。
単に放流するだけでもだめで(再利用できない)、文章化しただけでもだめ(管理できなくなる)、なのです。両方をやってこそ、ノードメモはその真価を発揮できるようになるのです。
■さいごに
となると、次はその「帰ってくる」をどのように実装するのか、という話になります。
それについては、また次回としましょう。
(つづく)
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