メモからノート その2 / PKMとPIMの再検討 / 引っ越しで考えること / 物事を眺める視点
はじめに
ポッドキャスト、配信されております。
◇第百五十七回:Tak.さんと『思考のエンジン』読了について 作成者:うちあわせCast
今回は、先日倉下が読了した『思考のエンジン』の話を中心に、「書くことと道具」の関係についてお話しました。
よろしければ、お聴きください。
〜〜〜忙しさと勉強〜〜〜
8月は、引っ越しと法事とお盆と原稿作業が盛りだくさんで、普段スカスカのスケジュールで生きている私としては「大忙し」と呼んで差し支えない状況です。
で、普段から一日10分程度、英語の勉強時間をとっているのですが、ここまで忙しいとその時間も取れなくなってきます。
というか、「時間」自体はあるのです。どれだけ忙しくても10分くらいの手空き時間が取れないわけではありません。でも、仮にそういう時間があったとしても、「勉強しよう」という気持ちにならないのです。
この問題を、もし「気持ちの問題」と捉えるならば、気合いを入れ、やる気を充填させれば勉強もできるはず、という認識になるでしょう。
一方で、やっぱりこの問題は「時間の問題」だとするならば、気持ちどうのこうのは関係なくなります。でもって、これは「時間の問題」なのです。
あまりにも疲れ果てている私には体力も認知資源も不足していて、勉強に割く「余力」を持ちません。そのときに必要なのは(≒優先されるべきなのは)、体力や認知資源の回復であり、つまりは、回復にかける時間なのです。
「気持ちの問題」と認識する限り、現実的な(つまり生物学的な)体力の限界などは一歳無視されてしまいます。それはあまりよくない状態でしょう。
そのように考えると、取り立てて生活に必要ないことを勉強することは、たしかに「娯楽」なのだとは言えそうです。
余力があってこそできること、という意味で。
〜〜〜Winについて〜〜〜
前号で、「Win-Win」の語彙空間を再検討すべきでは、という話をしたところ、以下のコメントをTwitter(現X)で頂きました。ありがとうございます。
さっそく辞書を引いてみましょう。
◇Winの意味 | goo辞書 英和和英
大きく四つの意味が挙げられています。
一つ目は、争いや競争に勝つことで、いわゆるゲーム的な勝利のことです。この場合、直接目的語に人は取らないらしく、たしかに「ゲームに勝つ」とか「選挙に勝つ」というのは、「山田くんに勝つ」とは違ったニュアンスがありますね。「制する」くらい印象です。
二つ目は、賞などを勝ち取ることで、こちらも競争的なニュアンスがありますが、その結果として何かを得る、ということに重点がありそうな意味です。「獲得する」というニュアンス。
三つ目は、人気・愛情・友人などを勝ち得ることで、人の好意を得るとか、友人を得るという感じで使われます。ゲーム的な勝利の意味はかなり薄れて、ある行為の結果として何かを得る、という感じが強いでしょうか。
四つ目は、鉱石などを採掘することですが、例文も載っていないのであまり使われないパターンだと思われます。
こうして眺めてみると、1→2→3の順番で、ゲーム的要素・競争的要素は薄まっていることがわかります。
で、よくよく考えてみると、winの対義語はloseなわけで、これは「負ける」という意味もありますが、「失う」という意味もあり、そこを意識すればwinにも「得る」という意味(語感)があるのはよくわかります。
とは言え、不思議なことに、日本語で「win」というと、基本的にはゲームに勝つこと(辞書の一つ目の意味)が強く意識されて、あまり「得る」という語感が出てきません。逆に、「lose」というと、「失う」ことが意識されて、ゲームに負けることはあまり思い浮かばない(少なくとも第一感ではない)気がします。
もちろんこれは私の語感の話なので、世間一般の感覚とは全然ちがう可能性もありそうです。
あと、最近気がつきましたが、日本で使われる「ウィンウィン」は、winが二つ並んだ言葉としてではなく、「ウィンウィン」という新しい単語として認識されていて、winが醸成する語彙空間とは別の空間が立ち上がっているのかもしれません。
また、この言葉が日本でよく使われているのは、この「ウィンウィン」という語呂が、日本語のオノマトペの語呂センスと非常に似通っている点が影響しているのではないか、などとも考えています。
ちなみに、日本で昔から使われているのは「三方良し」ですね。「良し」という言い方は、個人的には好きです。
〜〜〜松岡正剛〜〜〜
松岡正剛さんが亡くなったという記事が飛び込んできました。
◇(訃報)松岡正剛 逝去のお知らせ | 編集工学研究所
ただひたすらに悲しいです。ご冥福をお祈りしております。
本をよく読む人間としても、本を書く人間としても意識せずにはいられない人物でありましたし、彼の導きによってさまざまな人文書に興味を持った歴史もあります。
でも、それ以上に、私が20代の頃にむさぼるように読んでいた知的生産の技術書を書いてきた人が、また一人いなくなってしまったその事実に悲しみと戸惑いが強く湧き上がってきます。
梅棹忠夫、渡部昇一、外山滋比古、板坂元、立花隆、……。
私の本棚を眺めてみると、ご存命なのは野口悠紀雄さんくらいなものです。
当たり前の話ですが、何もしていなくても時間は前に進み、やがては時代が更新されます。
その中で、「じゃあ、お前は何をするのか」という問いが切実さを帯びてきていると感じられます。
皆さんはいかがでしょうか。最近なにかしらの「節目」を感じられたことはあるでしょうか。よろしければ、倉下までお聞かせください。
では、メルマガ本編をスタートしましょう。今回は、ノート話の続き、個人の情報管理、引っ越しで考えること、物事を眺める視点の四編をお送りします。
メモからノート その2
■5.3 連続的なノート
ノートは連続的な内容を扱うものなので、単純に考えると単独のメモがそれだけでノートになることはない。定義からいって、単独のメモは連続的ではないからだ。
では、どのような場合にノートは役立つのか。当然、連続的なものを扱うときなのだが、「連続的なもの」とは何だろうか。
わかりやすいのは「プロジェクト」だ。たとえば引っ越しについて考えよう。
引っ越しには、さまざまな意思決定が必要になる。場所、時期、配置、作業の調整、エトセトラ、エトセトラ。そのような意思決定を支えるための情報も合わせて必要になる。
それだけではない。そこでは「時間」も求められる。
ここでの「時間」には二つの含意がある。一つは、プロジェクトの開始から終了までの「時間」。つまり、二ヶ月後に引っ越しが終わるなら、開始時点からみて「二ヶ月後」の情報を扱わなければならない。これは、脳の記憶をあてにしてはいけない期間であり。是が非でもノートを使いたくなる。
もう一つは、意思決定の難しさにまつわる「時間」。つまり、簡単に答えを出せない問題に答えを出すための時間が必要で、そこでもやはりノートによる記録が記憶のサポートとなる。
このような「時間がかかる」性があることが、連続性に関わってくる。
つまり、ある意思決定Aについて考えたとする。しかし、その時点では決定が下せなかった。そこで保留としておくわけだが、次の決定のタイミングまでに、その意思決定にかかわるアイデアを思いついたり、役立ちそうな情報を見つけたりする。
そうしたアイデアや情報は、単独で扱うのではなく、「引っ越し」というプロジェクトに紐付けて扱いたい。もっと言えば、単に紐付けるだけでなく、「その意思決定に関する検討」という文脈で保存しておきたい。
どういうことか。
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