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【ちょっと上まで…】〈第十部〉『The past days ~ 過ぎ去りし日々』

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〈第十部〉
『The past days ~ 過ぎ去りし日々』


―――

【プロローグ】


 引き戸が勢いよく開けられた音で目を向ける。
 あの気の強そうな小娘が、真剣な面持ちで、
 怒りにも取れる思いつめた目をして立っている。
 力のある瞳だ。
 と、思うが早いか、娘は戸口に膝を落とし、板の間に正座をした。
 そして、がばりと身を伏せ、こちらに向けて土下座をしたのだ。

「お願いしますッ!! 助けてください!!」

 先刻までの態度とは打って変わって神妙にしている。

「……? こんな時間に、いったい何の冗談?」

 第一印象では失礼な娘だとは思っていたのだが、こんな態度を取ってくるとは全くの予想外だ。
 しかし、いきなりひれ伏される覚えはないし、助けをもとめられる筋合いもない。
 追い返そうと立ち上がった時、ふと、引き戸の間にうずくまり、頭を垂れている小娘の姿に軽いデジャヴュ感覚を覚えた。

 こんな風景を、遠い過去にも見たような気がする……。

 そう、あれは、私たちがちょうどこの娘ほどの歳のころだったか……。


 ◇ ◇ ◇


【接触編】


〔20年前・学園〕

 美しい針葉樹林に囲まれた小高い丘の上に、国軍女学校の校舎があった。
 国軍付属というとどうしても質実剛健のイメージになってしまうのだが、ここでは少々様子が違っている。
 華美な装飾こそついていないものの、清楚な造りの洋風四階建てで、後期ゴシック風の建築様式をモダンにアレンジしている。
 生徒から聖堂と称されている食堂ホールに足を踏み入れるたび、自分がちょっぴり西洋の貴族にでもなったかのような気分になる。
 ― 深窓の令嬢が学問に専念できる、空気までが清らかに澄んだ空間 ― (そんな学び舎を、建築家やデザイナーが目指して建てたんでしょうね)
 などと、セイコは思うのだった。

 これは、後にリリクの母となり、亜軌道船(エクラノプラン)〈バイトアルト〉の女神となるセイコ・カミヤマ(当時の旧性はタナベ)ともうひとりの、学生時代の物語である。

〔第一種接近遭遇〕

 セイコは、周りから推挙されるまま、特に自覚なくクラスの委員長を勤めていた。そのうえで、自分はそこそこ普通で真面目、典型的で一般的な女学生であると強く自認していた。
 あくまで普通が一番、変わったことはせず、中庸がベストというのが彼女の家の教えであり、その通りに生きることが普通であり正しいことだとセイコ自身思っていた。のだが……。

 セイコのクラスでひとりだけ、学力テストの時以外まったく教室に現れない謎の生徒が居た。名をケイ・クリハラという。
 科学と数学の成績がずば抜けていいために他教科は免除されている、とか。父親が前理事長で優遇されている、とか。そしてなぜか『おケイさん』と呼ばれることを異常に嫌がっている……、などと、妙な噂を耳にはするものの、真実を知る者は誰も居ないのだった。
 欠席の理由を教師に尋ねてみても「あの生徒は特別なので気にすることはない」としか言われず、釈然としないセイコなのである。
 だがしかし、気にするなと言われると、ついつい気になってしまうものだ。
 授業を欠席しているとは言っても、寮生なので学内にはいるらしい。
 常に白衣を着て、ひとりで科学実験室にこもっているようだ。
 ただ、昼食の時だけは、学内のカフェテリア、食堂ホールに現れるのだという。

 ◇

〈カフェテリア〉

 学生から聖堂と呼ばれることもあるこの食堂ホールは、アーチ状の天井が高く、二階部分の高窓はステンドグラスにもなっていて、全体的に開放的な、おしゃれで明るい空間になっている。
 しかし、そんな中にも一部日光の差しにくいところはあり、フロアの隅のほう、少し暗めの不人気な席で、白衣の生徒がもくもくと食事をしていた。
 周りには並べられた長机に着いてお昼を楽しんでいる女学生たち。
 せわしなくスプーンを動かしたりぺちゃくちゃとおしゃべりを交わすダークブラウンのセーラー服たちは、天空からの日差しと明るい水色に塗られたテーブルも手伝ってか、まるで、湖で遊びさざめき合う雁の大群のよう。
 その中にただ一羽だけ、真っ白な白鳥が隅のほうの日陰にひっそり紛れ込んでいる。そんな印象をセイコに与えた。
 いつもセイコが食事をする定位置とは部屋の対角にあたるため、今までは意識できていなかったのだが、あれが噂の希少生物。おケイさんなのだろう。

 異質な存在に近づくのは家の教え的に問題があるかもしれないけれど、「普通」の委員長ならば、そういう子にはきっと声をかけるはず。そう決意をして、ある日、ついに同席を試みたのであった。

 ◇

 A定食のトレイを手に、彼女の座るテーブルへ向かう。
 ケイは、黒ぶちメガネをかけ、漆黒の髪を飾り気のない黒ゴムでくくって背中に下げている。白衣と白い肌、そして薄い朱の唇以外はみごとに黒だらけだ。
 おまけに、うつむき加減にして黒い海苔が巻かれたおにぎりを、まるで野生児のように手づかみで頬張っていた。凛とした美しい顔立ちからこのワイルドさは激しいギャップを感じる。
 おにぎり二つとたくあんのセットは、この学食で、ライスやパン単品をのぞけばもっとも安い食事メニューなのであった。
「ここ、いいかしら?」と尋ねるセイコに、野生児のケイは食べながら顔も上げず、
「ダメ、こないで」と言った。
 ガードの固さにちょっぴり戸惑うセイコだったが、その程度のことはあらかじめ予想していた。気を取り直し、意識して明るくふるまい、
「いいじゃないですか。あいているんだし」と言って、強引に前の席に座る。
 これ見よがしだろう、大きくため息をついたケイは、周りをぐるりと見渡して、
「他にも席はあるでしょう。私はひとりで食べたいの」と言ってご飯粒のついた指をなめる。そんな姿も周りの女学生からはとても浮いていた。
 あくまで拒否の構えのケイに対し、
「まあまあ、おかずあげますから」と、定食に付いてきた一品の煮豆とあぶらあげの盛られた小鉢を彼女のトレイに置くセイコ。
 女子の礼節。不意の訪問には手土産を持って。
 それをじっと見て、ケイは、
「……。見ての通り、お返しできるものはないわ。たくあんぐらいしか」と言った。
 野生児でも返礼をする常識はもちあわせていたようで、ちょっぴり安心するセイコである。
「ふふっ。いいわね、じゃあ、お返しにたくあんをいただこうかしら? あ、でも、お箸はつかってくださいね」

 これが初日だった。
 その程度の、他愛のないお昼だけの接近遭遇が、その後幾日か続いた。

 ◇

 ケイは毎日おにぎりで済ませている。最初のころは手づかみで食べていたが、セイコが現れるようになってから、お裾分けを交換するためか、トレイにちょこんと小鉢と箸が載るようになった。
 野生児が文化を、そして自分を受け入れてくれたような気がしてセイコはちょっと鼻が高く、いい気分になるのだった。
 ケイは何も言わないが、どうやら芋の煮っ転がしが彼女の好物であるらしいこともわかってきた。いつもおにぎりしか食べていないことについてはあえて突っ込むまい。家庭の事情もあるのだろう。
 それでも栄養不足にならないか気にはなる。次は汁物を持って行ってあげようか、お野菜はどうしようか等と考えるのもけっこう楽しいものだ。
 そんなお昼を繰り返していると、セイコと以前まで一緒に食事をしていた友人グループから「物好きねぇ」と半分からかいの声が上がってくる。言外に否定的なニュアンスが含まれているのを感じるけれど、彼女らは彼女らだ。物好き派に参加する気がないならば自分ぬきで自由にしてもらえばいい。
 幸い、派閥の浮き沈みやスクールカースト順位に脅かされる心配をセイコは持ちあわせていない。そのあたりは自分の持つ『普通力』と、委員長という立場に自信がある。まあ気にすることはないだろう。

 ◇

 ある日、いつものお昼の時間に、
「なぜ、いつも私の所へくる?」
 と、ケイの方から問いかけがあった。
 何かを察したのかもしれないけれど、クラス内カーストの完全な外側にいるケイが、派閥など気にするはずもない。きっと、ただ単純に疑問を持ったのだろうと判断をして、セイコからも単純な疑問を問いかけてみることにした。
「だって、気になるんですもん」
「気になる?」
「そう、なんでいつも白衣なのかとか、なんで教室にこないのかとか、なんでそんなに美人なのにお化粧をしていないのかとか、いろいろ気になるお年頃なんですよ。あ、でも、目立つお化粧は禁止ですよ。こっそり、かるーくね」と人差し指をふる。
 委員長的に禁止事項を奨励するわけにはいかないのでそう言ったのだが、明るいセイコの声に呆れてしまったのか、腹立たしそうにケイは答えた。
「美人は余計。白衣なのは実験中に汚れが服に付かないよう。もし薬品がついた場合にわかりやすくするため。そして、可燃性や毒性のある薬品の場合はすぐ脱ぎ捨てられるように。科学基礎で習わなかった? それと、教室へ行かないのは時間の無駄でバカが感染(うつ)るから。質問は以上?」
 それでおしまい。と席を立とうとするケイに、セイコはあわてて質問を重ねる。
「うんと、あ、あともう一つ、『おケイさん』って呼ばれると怒るって聞いたけど、ほんとう?」
 ただでさえ不機嫌そうだったケイの目に、急に怒りの色が広がった。心なしか髪も逆立っているように見える。
「二度とその名で私を呼ばないで」
 それだけ言って立ち上がり、急ぎ足で去ってしまった。自分で返却せねばならない食事のトレイはそのままにして。
「本当に嫌みたいですねぇ。それにしても……。その白衣の説明は実験中に着る理由でしょ。なぜお昼にも着ているのかって聞いてたのにねぇ」とケイはつぶやき、机の上のトレイを見て肩をすくめる。
(代わりに片づけてあげますか。ほーんと、まるで野生の猫さんですね……)

 当初、セイコはケイのことを、とても頭が良いが、ひどく変わった野生動物のような人。という認識でいた。
 自分のほうが社会性があり、スクールカーストの上位者であるという驕りがあったのかもしれない。
 ケイの社会的立ち位置はまったく変わっていないのに、自分と彼女との関係がだんだん変わってきている感じがする。その事の本当の意味に、この時点でまだセイコは気が付いてはいなかった。

 ◇

〔第二種接近遭遇〕

 それから何日か、ケイは昼食に姿を現さなかった。
 昼食時の休み時間にしかカフェテリアは営業していないので、この時間を逃すと午後いっぱいお腹をすかせているしかないのだが。もともと授業を受けていないケイには関係ないのだろうか。
 それとも、実験室で食べているのか……。
(一度、科学実験室を訪ねてみようかな。嫌がられちゃいそうですけど……。あ、そうだ、お弁当を持って行ってあげたら喜ぶかしらん?)
 などとセイコが考えていると、また唐突に、ケイは昼食時に姿を現し、あの習慣が復活したのだった。

 当然のごとく、セイコは彼女の前に座る。すると、ケイはおにぎりをつかみながら口を開いた。
「あいかわらずね、なぜそこまで私に興味をもつ?」
「あれからね、よーく考えてみたのだけれど、ケイさん……」セイコは気を付けて『おケイ』と呼ぶのは避ける。そして、
「ケイさんがそういう質問をするということは、私がなぜ貴女(あなた)に興味を持っているかってことに、ケイさんが興味があるってことですよね?」と、手振りで自分と彼女を示しながら言った。
「……。興味と言うより疑問だ。こんな私に興味を持つ、貴女の反応は普通ではない」
「あら、貴女のほうこそ 普通でない のでは? それに対する 反応が普通ではない のは、それこそ、普通なこと だわ」
 すこしだけ考えてから、ケイは
「詭弁だな……」と答えた。
「どうかしら? 貴女が普通じゃないように、私の『普通っぷり』もけっこう年季がはいってるんですよ。生まれたころからとっても普通な家で、ひたすら普通でいるべく普通修行をして今にいたっているようなものなんですから」
「なんだそれは……」
「ふふ、興味持ってくれました? 私、じつは貴女のクラスの委員長もやっていたりするんですよ。ケイさん、知らなかったでしょう?」
「……。たしかにそれは知らなかった。それで、なにか? 先生に言われてぼっちな私と仲良くしてやれとか偽善的な理由で近づいたのか?」
「いいえ、違います。私は自分の感情と興味に正直なだけ。私は、普通ではないらしい貴女のことが気になっているから、いろんな噂話を聞いたりして情報を集めたりしてます。だって、お友達になりたいんですもん」
 肩をすくめて見せるケイ。
「笑わせる。どんな噂なのやら。そんなデマカセを信じて友達になりたいとはな!」
「それも違いますよ。変な話もいくつか聞きましたけど、私は本人に確かめるまで、いい噂も悪い噂も信じませんって」
「それで? 確かめてみて何かわかったのか?」と問われると、セイコは笑って肩をすくめ、
「ぜんぜんわかりません。美人さんだってこと以外はまだ教えてくれていないんですもん」と、答えた。
「美人なんかじゃない!」と、また眉をつりあげるケイに対し、
「そんなことないですよう」とセイコはぷーとふくれて否定する。
「私は普通ですからわかります。なにかこう、ケイさんはオーラが違うっていうかー」
「変人ってだけだろう」
「変なのはいけない事じゃありませんってば。特徴があるってことですもん。そのうえ、科学や数学が得意でとっても優秀な頭脳の持ち主なんて、素敵ですよ~」
「やめろ。美人と言われるよりはまだその方がいい、が……。なんだか、こそばゆい……」
 と言ってうつむくケイ。どうやら赤面しているらしい。
 あらあら可愛いんだ。とセイコは思った。
「わかりました。美人さんって言われるより、頭がいいって言われたほうが嬉しい人。それと、あの言ってはならない名前は禁句。それは覚えておきます。ケイさんのこと、ちょっとずつだけど知れて、私、とっても嬉しいんですよ。でも、お友達なんだから、禁句のこととか、いつか、言えるようになったらでよいので、教えてくださいね」
「……」
 ケイは何も言わず、またトレイを置き去りにして立ち上がり、去って行った。

 ◇

〔変わり者の唄〕

 翌日、先に座って待っていたセイコの前に座るなり、ケイは低い声音を出し、
『僕は、靴ヒモをほどけたままにしている。誰かが気がついてくれるのを待っているんだ……』」とつぶやいた。
「なんですかそれ?」
「昔の詩人の唄(うた)だ」
「ふうん」
 と言ってセイコは椅子を引き、机の下を覗き込む。
「わっ! なにやってるの!」
 白衣に隠したスカートの中を覗かれそうになり、慌てて身をよじるケイ。
「靴ヒモ、ちゃんと結んであるじゃないですか」
「物のたとえだ! 貴女に合わせてすこし文学的な言い方をしてみただけ!」
「私って、そんなに文学的ですか?」ひょっこり机の上に首を出してセイコは聞く。
「論理的なようで論理的でない。少なくとも私に理解しやすい会話じゃないことは確かだ」
 よっこらしょっと椅子に座りなおすセイコ。
「散文的、とはよく言われますけど……。でも、なんとなく、打ち解けてきてくれているのはわかります。嬉しいですね」
「……」
「じゃ、お友達のしるしに、はい、煮っころがしあげます」と言って彼女のお皿におかずの芋をお裾分けし、距離感の縮まった今こそ、と。前々からやりたかった女子トークを開始するのであった。
「ちょっと小耳に挟んだんですけどね、下の男子理学部で、ケイさんのこと話題になっていたそうですよ。以前何度か訪ねられたんですって?」
 彼女らの女学校は丘の上にあり、丘の下には広い鍛錬場を備えた男子校があった。どちらも軍の養成校だが、両校に直接の関係は無く、教科もだいぶ違うという話をセイコは聞いている。もちろんセイコは通学路のショートカット・コースになっている敷地をこそこそと通り抜けたことがあるぐらいで、なにか理由を持って男子校を訪ねたことなどないのだが。
「……。理学部の教師に呼ばれて、いくつか理論の解説をしに行ったことがある」
「すごいじゃないですかあ。学生なのに先生の先生をするなんて! あ、それでそれでっ! 誰か気になる男性はいましたっ?」ずずいと身を乗り出すセイコである。
「いるわけがない。皆、このジャガイモ程度の頭な連中ばっかりだ」
「あらあら、そうなんですね」と、さほど残念がる様子もなく続ける。今日はまだネタがあるのだ。
「で、その男子たちにケイさん、『K2』って呼ばれてるんだそうですよ。難攻不落の白銀の高峰、非情の山なんですって。カッコいいですね」
「バカらしい。いいかげんにしてくれ」
「でも、そんなこと言われるってことは、きっと山頂アタックは受けたんですよねー。いいなあ」
「いいもんか!」と言い捨てるケイ。
「くだらん奴らに山を荒らされるばっかりで、いいことなど何も、一切、金輪際ない!」
「ふふっ、非情の山の自覚はあるんだ。あとあと、なんか頭から喰われるとか怖がられてたそうですよ? 妖怪?」
 連投される女子的問いに、いいかげんあきれ声になるケイ。
「キミはなんでそんなに喜んでいるんだ?」
「だってー、気になるじゃないですかあ」とくねくねするセイコ。
「それが貴女の言う普通の興味なのか?」
「ですです、聞きたいですよ~。普通の女子トーク。ケイさんとやりたかったんです。おしえてくださいよーぅ」
「……。奴らには、カマキリの交尾の話をしてやっただけだ。知っているか?」
「いいえ? 何です?」
 あどけない、無知ゆえのきょとんとしたセイコの顔を見て、ケイはひとつ咳払いをし、まるで隠された世界の真実を語るように、声を抑えて語った。
「オスは当然、交尾がしたいわけだ。メスはなかなか許さないんだが、ある時ようやく許しを得て、彼女に絡みつき、行為を始める。メスは、そうしたオスをゆっくりその大きな複眼で見つめて、おもむろにその長いカマ状の腕を相手の首にかけ、引き寄せたかと思うと……」
「思うとっ?」
「メスはオスを抱き寄せ。そのまま……、その頭から、ばりばりと喰っちまうのさ」
「え? えええっ?」
「オスは本能ではじめた行為を途中でやめることができない。快感を感じているのかどうかは知らないが、ソレをやりつづけたまま、頭から胴体まですっかり喰われても、下半身はまだ行為をつづけているそうだ」
「うっわー」
「ま、そのオスの文字通り献身的な栄養で、メスは母体に負担のかかる産卵ができるという自然の節理だな」
「そ、そんな話をオスに……いえ、男性にしたんですか?」
「ああ、そんなオスになりたいのだな? と確認したら、ジャガイモでいいですってさ。くだらないだろ、男なんて」
 と言ってジャガイモの煮っ転がしをひょいとつまんで口にほおりこみ、妖しく微笑むケイ。
 その顔を見つめたセイコは、
「すご……」とつぶやいて、
「いま、私が考えている事、当てられます?」と聞いた。
「私の変人っぷりをようやく知って、あきれるか引いてるんだろう?」
「残念でした。その反対! ますます大好きになりました! カッコいいですよ! ケイさん!」
「え?」と驚いてから、どういう顔をしたらいいかわからないといった風にうつむくケイ。それが照れている姿だと、セイコにはもうわかるようになっていた。

 ◇

〔第三種接近遭遇〕

〔チャンス〕

「今日は、午後の授業はお休みです。委員ですから一応お知らせしておきます。はい、プリント。ケイさんには関係ないでしょうけれど」
「関係ないね」
「なのでー、あのー、そのー」ともじもじするセイコ。
「なんだ?」
「ケイさんの実験室、遊びに行っていいですか?」
「ダメだ」
「えー、即答!? もう私たち、お友達でしょう? お芋の煮っ転がし、いくつも上げたじゃないですかあ」
「あれはそういう取引だったのか? そもそもその程度では見合わん。ダメったらダメだ!」
「お友達なのは認めてくれるんですね?」
「知るか!」
 と乱暴に席を立つケイ。
「ちょ、ちょっと、まってください! ちゃんとトレイは片づけて!」
「ふん、お友達がやっといて!」
「そんなあ」
 自分とケイの分、二枚のトレイをあぶなっかしく両手に持ち、返却台に戻した時には、もうケイは姿を消していた。
 しかし、このチャンスは逃せない。休み時間に行ってもいつもカギがかかっていて中には入れてもらえないのだ。
 あわてて早足でケイを追うセイコ。幸い向かうべき場所はわかっている。

 二階に上がり、長廊下に折れると、先を急ぐケイの後ろ姿が見えた。
「まって! おケイさん!」と、慌てたものでうっかり口にだしてしまう。
「その名で呼ぶなっ!」と叫び、走り出すケイ。
「廊下は、走っちゃ! ダメです!」と、息を切らせつつ、さらに競歩のように速度を速めるセイコ。(走ってはいないから委員長的にセーフ)
「その、事も、絶対、教えてもらうんだからっ!」
「い、や、だ!」

 普通が身上のセイコが、廊下を走る希少生物を追って競歩する。それは、他の生徒から見ると十分に普通ではないだろうということに、かるく小走りになりながらセイコも気が付いていた。
「そ、それでも、私はっ……」

 バン。
 実験室の扉に手をつく。ちょうどそこで追いついたのだが、寸前に室内に入ったケイによってドアが閉められそうになる。はしたないけれど仕方がない、フット・イン・ザ・ドア・テクニック。上履きのスニーカーを閉まる引き戸に挟みこむ。当然挟まれて痛い。でも、耐える。引き戸のカギは、ちゃんと閉まらないとロックできないはず。
 息を整え、そっとドアの隙間から中を覗き込もうとするセイコの顔を、ケイが両手で抑え込み、視界をさえぎる。
「見ないで!」
「ちょっとぐらい、いいじゃないです……かあ……」
 と頬をつぶされながらアヒルのような口をして懇願するセイコ。
「ここは私の聖域、私の心のようなもん。そこを土足で踏み荒らす権利なんて誰にもない!」
「土足じゃないですけど……。上履き、脱げばいいですか?」
「そういう問題じゃない! なんなの? そうやって相手のことを考えずに入り込んできて! 人の腹の中にきたない棒つっこんでかき回して血だらけにして、相手がどんなに痛がろうが苦しかろうが、自分だけ気持ちいいからそれでいいってオスどもと同じ?」
「ひどい……。そんなあ。い、痛くしませんよぉ」
「ふっざけんな!」怒髪天を付いたようだ、ケイの両手に力がこもる。痛みに耐えるセイコ。あっちょんぶりけ。
「ま、まって、突然だったことは謝ります。ほんとうにごめんなさい。それに、ずっと付きまとっている事も。でも、貴女を傷つけたいわけじゃないんです。貴女の『ほどけた靴ヒモ』を私、見つけちゃったから、どうしても声かけなきゃって……それで……」
 泣きそうなセイコを眼前に見て、ケイはふっと表情をやわらげるが、また思い直したようにキッとまなじりを上げる。
「目をつむれ!」
「え?」
「しっかり目を閉じろ!」
「は、はい!」
 あわてて目を閉じるセイコ。ぶたれる? いや、両手がふさがってるから頭突きでもされるかもしれない。と身をすくめていると……。

 ふっと、とても柔らかく、暖かいものが唇にふれた。
「えっ!?」
 こ、これは、キ……、キッス?

 びっくりして目を開けると、ケイはもうくるりと向きを変えている。
 真昼の窓からの日差しを受けて、ゴムヒモを解いた彼女の長い髪と、白衣のすそが黒と白の百合の花弁のようにふわりと広がっている。光輝く姿が、セイコの瞳に焼き付いた。
 数歩部屋の奥に進んだケイはまた振り向き、
「あれだけ言ったのに……。そんなに頭から喰われたいの……?
 まあ、いいわ。ようこそ、私の実験室へ……」と、
 とうとう、聖域へ迎え入れてくれたのだった。

 セイコは小さく「ひえ……」とつぶやいて両手の指先で自分の唇を抑え、その場にへなへなとしゃがみ込む。
 ずっと早足でかけてきたからか、心臓の鼓動がとてもうるさい。

 ファーストキッスは、芋の煮っ転がしの味がした。

 ◇

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6,595字
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