20191129_石巻訪問
ずっと訪れたかった場所だった。
目的はお墓参り。
実のところ、東北地方とはあまり縁がない。
一度、震災関連のボランティアで脚を運んだのと
J3時代にスカパー放送がなかったので現地に参戦したくらい。
親戚がいるわけでもないし、友人もほとんどいない。
…しかしながらその数少ない友人を、東日本大震災で亡くしてしまった。
縁がない、というよりは避けていたのかもしれない。
…
彼女との出会いは、高校時代まで遡る。
当時の私は、県下No.1と謳われるいわゆる名門進学校に通っていた。(…と言っても1年で辞めているのだが。)
これは地方の進学校あるあるになるが、やれ東大を見学しにいったり、全国から学生が集まるフォーラムに生徒を派遣したり…中央への憧れが非常に強いのか、あるいは刺激を受けさせることを大事にしているのか…何かとそういう機会は多い。
そんな事情もあって、当時はまだ品行方正だった私…少なくとも大人にはそう見えていたはず…も「ユースフォーラム」という催しに参加することになった。
15人くらいの同世代の男女がグループになり、ひとつのテーマについて3日間ディスカッションをして、まとめた提言をプレゼンテーションするというよくあるフォーラムだった。たしか、テーマは「環境問題」で「持続可能な開発」「レジリエントな社会」なんて話だった。話の中身はもううろ覚えだが、やはり少年少女にとって「同じ釜の飯を食う」ということは、特別な体験なのだろう。
自由時間に代々木公園や原宿に行き、みんなで夜中まで語り合ったことは今でもよく覚えている。
僕たちは盛り上がり、当時まだ主流だったメーリングリストや携帯サイトを作って、将来の再会を夢見た。
しかし、若者にとっては、遠く離れた友人関係よりも、身近な差し迫った人間関係のほうが重要に見えるというのが事実。
はじめの半年くらいは毎日のように連絡をとっていたものの、一人また一人と反応がなくなっていく…というのが現実だった。
そんな中、なぜだか彼女とは定期的に連絡を取り合っていた。
2つ歳上の、どちらかというと控えめで目立たないひとだった。
あまり自分の意見を言わずに、みんなの意見をじっと聞いているような…言うならば、私とはまるで正反対なひと。
最新のJpopよりもちょっと昔の曲が好きなひと。
似てるけどどこか違う人間同士、意外と馬があった。
…思えば、直接会うことはなかったものの、色んな話を聞いてもらった。
学校を辞める話、父の病気の話、受験の話…決して楽しい話でないにも関わらず…だ。
一方的にこちらが話したいことをぶつけていたような気もしてくる。
そんな感じで、週に1、2回メールのやり取りをしたり、たまに電話をしてみたり…不思議なほど連絡が途切れずにいた。
…
彼女は、石巻の出身だった。
地元への愛情が強く、看護師として生まれ故郷に貢献すべく仙台の大学で学んでいる最中だった。
普段は自分の話をしない彼女も、地元美味しい魚や豊かな自然の話、家族の話、将来の夢の話になると驚くほど饒舌になったものだ。
長男で、年の近い従兄弟もいない僕にとって、お姉ちゃんのような存在だったのかもしれない。
2011年3月11日
その日、僕は鹿児島にいた。
中学時代の友人の墓参りに行くためだったと記憶している。
鉄道が沿岸部を走っているため、当時住んでいた宮崎に帰れなくはなったものの、どこか遠くで大変なことが起きているという感覚だった。
彼女の訃報に触れたのは、震災から3日ほどした時だったと思う。
宮崎にもどって、何の気なしにPCメールを開くと、昔作ったメーリングリストで連絡が来ていた。
大変だろうと思い連絡はせずにいた。
仙台にいるから大丈夫とたかをくくっていた。
…いや、
自分のことで頭がいっぱいだったのかもしれない。
連絡をとらなかったこと、震災の知らせを聞いてすぐに思いが至らなかったこと…今思い出しても後悔ばかりが残っている。
…
それから8年の月日が経ち、ようやく脚を運ぶことができた。
罪悪感に似た気持ちに折り合いがついたのだと思う。
石巻の街は、萬画の国と謳うだけあって、至るところに石ノ森章太郎氏の作品にちなんだモニュメントがあった。
懐かしすぎる「ロボコン」
華やかで、楽しい気持ちになれた。
…
しかし、マンガロードを抜けて海に近づくと様相は少し変わってくる。
街のところどころに、津波の高さを示すこんなマークが。
僕の身長を遥かに越える高さだ。
そして、おそらくもう開くことのないであろうシャッターが閉められたお店もあった。
さらに歩き進めると、被災した小学校の遺構が見えてきた。
旧門脇小学校
津波襲来時に学校にいた児童や教職員が一人も命を落とさなかったことで知られている。
今は、門脇小学校からもよく見える沿岸部に追悼施設を建設しているようで、工事現場の作業員がたくさんいた。
石巻の復興のシンボル、震災のわずか1ヶ月後で建てられた、「がんばろう!石巻」の看板
今では瓦礫が片付けられ、設置場所もかわった。看板自体も2代目となったそうだ。
当時の様子を物語る写真展示
まねきカフェという、食料品・生活必需品店と喫茶店、弁当屋さんを兼ねたお店で撮影させてもらった。
店を辞し、ふと空を見ると、爽やかな秋晴れが広がっていた。
遠くに見える海は静かに揺れているだけだった。
海産物の街、石巻を豊かにしたのも自然…
それを一瞬にして奪い去ったのも自然…
理不尽を理不尽と言い切れない、何とも言えない思いが胸に去来する。
自然は寛大で、無慈悲だ。
…
一通り、街を見てから墓参りに向かった。
湿っぽい再会は嫌だった。
近況報告をして、サッカーを観に行く話をして、ずっと温めていた、お互いが好きだった安全地帯のある映像を見せた。
…
東日本大震災から3年の時が過ぎたある日、
当時ロクに大学にも行かず、かといってサークル活動やアルバイトに精を出していたわけでもない私は、何の気なしにテレビをつけていて、流れてきたこの番組に釘付けになった。
NHK SONGS ~玉置浩二~
震災に見舞われた石巻に玉置を誘ったのは、石巻で被災した女性ファンからの一通の手紙。
先の見えない避難生活、希望を失いかけていた彼女のもとに偶然とどいたラジオから流れる「田園」
生きていくんだ、それでいいんだ
シンプル、しかしてパワフルなフレーズに勇気づけられ、復興の傍ら地元民が集まるbarを開いたという女性だ。
こんな縁で開かれた一夜限りのライブ、往年のヒット曲と震災を機に書き上げた「清く正しく美しく」、そして「田園」
波に巻き込まれ 風に飛ばされて
それでもその目をつぶらないで
3.11以降、この歌詞を理由に自粛され続けていた「田園」
彼女も大好きな曲だった。
…
30分ほど、ずっと一緒に映像を観ていた。
永遠にそこにいたいような気もしたけれど、思い直した。
僕が死ぬまではもう会えはしないけれど、僕が忘れない限りはいつでも会えるから。
今度はいつになるか分からないけど、また来るよ。
そのときは奥さんや子どもがいるかもしれない。いや、たぶんいないと思う。絶対いないや。
それでも、僕が生きてさえいれば、笑ってまた会える。
生きていくんだ、それでいいんだ