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出会い系アプリを徘徊する既婚者たち:55歳金融系の男(後編)

私は派遣で働く30代。恋愛感情が欠けていると思う。学生時代は恋多き女と言われたこともあるけれど、本当に恋に落ちたことなどない。男のことは、半分バカにしているんだと思う。夫である橋口君とは「恋愛感情抜きのパートナー」として、お互いに割り切って結婚した。どうせ、周りの既婚者たちも、10年もすれば恋愛感情なんて失っているんだから。

そして今、私は「ギリギリの若さ」を利用して、ある実験を始めることにした。テーマはシンプルだ。既婚者たちは、出会い系アプリの先でどんな行動をするのか。そして、その行動に私の心は動くのかどうか。

プロジェクト・リリ。「リリ」はアプリ上での私のハンドルネームだ。

リリが飽きたら、ゲームオーバー。

待ち合わせは表参道のビストロ。私は新宿からタクシーで向かう。

タクシーのナビに設定したマップによると、もうワンブロックで目的地、というあたり。信号で止まっていると、フランスの国旗がひらめくお店の前に男が立っているのが見える。

「すぐそこなので、降りますね」

タクシーを降りて歩いていくと、男が私を見つけ、ほっとしたような笑顔を見せる。
アプリの中の男達は、常に「すっぽかし」の恐怖に怯えているのだ。

男に続いて店に入り、後から男の全身を観察する。ある程度は質の良さそうおなスーツだけれど、着古した感がある。

店の奥の二人席に案内されて、席に着いて目が合うと、男は深呼吸をするように大きく息を吸い、「ふう」と吐き出す。

「いやー。来てもらえないんじゃないかと思ったよ」
「すみません。新宿周辺の道路が混んでいて」
「新宿からタクシーだったの?申し訳なかったね。まあ、金曜日だからね」

「これ、ちょっとしたものなんだけど…」
そう言いながら、彼は花柄模様の包装紙を机の上に置いた。
私は「ありがとうございます」と受け取る。
手に取った瞬間、「ミニタオルだ」と思う。


中にはブルー地に花柄のミニタオルが入っていた。
無難な贈り物。そういえば、20代に上司からもらったプレゼントも、ミニタオルが多かったなと思う。

「ありがとうございます。気を遣っていただいて」
「いやいや、今日は会ってくれてありがとう」

会話はそこから、家族の話に移った。

男は楽しそうに、奥さんや二人の息子のことを語り始めた。奥さんは専業主婦、息子たちはそれぞれ中堅以上の大学に進み、自立も間近だという。
よくある中流家庭だ。男も奥さんも、大きな不満もない人生を送っているのだろう。

「うちはね、もう何も心配することはないかな。定年まで働けそうだし、貯金もそれなりにあるし。まあ、いわゆる普通の中流家庭ってやつだよ。」

男は、私の脳内をなぞるように言った。

私はただ相槌を打つ。
同じような会話を、もう何度も聞いた。
商社で働いていた20代のあの頃、仕事の打ち上げやお疲れ様会で、上司にご馳走してもらいながら、何度この手の話にうなづいただろう。

心の中で「おじさんん上司」とニックネームをつける。

「奥さんは、幸せそうですね。良い家庭を築けて」
「そうだな、まあ不満はないだろうね」

「どうだろう」と私は思う。
本当に世の中の”奥さん”達は幸せなのだろうか。

ビストロの食事は、どれもおいしかった。
男は、私が食べる姿を見て「おいしそうに食べるね」と嬉しそう。
そういえば、最初に会った時に、以前とても偏食な女性がいて、辟易したと言っていたっけ。

「また食事ぐらい、付き合ってくれるかな」
デザートになり、コーヒーを飲みながら、男は言った。話も聞いてあげるし、おいしそうに食べてあげる。私は合格したってこと。

「お食事、いいですね」

一応、そう答えてから、この人ともう一度会って、何を話すのだろうと思う。彼の仕事の武勇伝の続きか…。その会話を想像すると、食事と引き換えだとしても、ちょっと苦痛だなと思う。
「本当に誘われたら辞退すればいいか」

お店の店長に軽く会釈して、店を出る。

「新宿まで乗る?駅まで送るよ。」
「ええ、助かります。」

タクシーが目の前に止まり、二人で乗り込んだ。車内は静かで、街のざわめきが遠くなっていく。彼はシートに深く座りながら、微笑を浮かべて私を見た。

「今日は楽しかったね。お店はどうだった?」
「おいしかったです。素敵なお店でした。」
「それは良かった。またおいしいもの、食べに行こうね。」

その瞬間、彼の手が私の手に触れた。
無言のまま、少しずつ指を絡めてくる。そのまま、彼の手がゆっくりと私の太ももに滑り込んでくる。

ああ、やっぱり。上司じゃん、これ。

「面倒だな」という思いと、「私のネーミングは正しかったよね」という思いと。

あの頃、男性上司という人種は女性部下を食事に連れて行き、帰りにだいたい、こういうことをする。私はいつもうまく誤魔化してサラッと逃げていたけれど、誰かその先まで許してしまう女性社員がいるのだろうか、と不思議だった。

私は男の手を掴み、彼の膝の上に戻す。バックミラー越しに、運転手と目が合う。男の行動がバレたことで、なぜか私まで恥ずかしくなる。
「すみませんね。バカな男で」

彼はまるで何事もなかったかのように、会話を続ける。
「本当に、また時間があったら会おうよ。ゆっくり食事でも。」
「そうですね、また時間があったら。」

どうして男は、こうもおめでたいのだろう。

私はドッと疲れて、タクシーの背もたれに体重を預け、男から顔を背けて窓の外を見る。
うんざりしていた。
なぜ、出会い系アプリで出会った相手に、上司と同じ対応をしなければならないのだろう。
なぜ、この愛も恋もない状況で、これは何のプレイなのだ。

そういえば、男はコロナで会食がなくなって、アプリに登録したと言っていた。
会食がなくなって、部下の女性に手を出す機会がなくなって、手持ちぶたさになってアプリで女性にこういうことをしているのだろう。

セクハラ上司のバカなところは、未遂で終わったら、二人だけの秘密になっていると思っているところだ。
実際は、女性達の間では、「〇〇さんって、セクハラだよね」「昨日どうだった?」「何してきた?」と噂話と笑い話の対象になっている。
男はそのことに気づいていないから哀れだ。

男たちがアプリで何を求めているのだろう、と好奇心があったけれど、この男は愛でも恋でもなく、ただのセクハラおじさんだった。

新宿駅に着くとタクシーが止まり、彼が私に手を差し出す。
「じゃあ、またね。」


「ええ、ご馳走さまでした。」
私は彼の手には気づかないふりをして、振り返ることもなく、タクシーを降りた。

電車に乗ると、新着メッセージ。

「今日はありがとう。楽しかったね。またぜひ」

どうしてあの食事で、私が楽しかったと思うのだろうか。
私は食事代の分だけ、話に付き合っただけだ。
それでイーブンなのに、最後のアレは余計だった。

「セクハラプレイは趣味ではなくてごめんなさい。他の方を探してくださいね。」

送信ボタンを押しブロックすると、スッキリした。
ゲーム・オーバー。

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子リス
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