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「歌」と「ものまね」の力【儀式論 第7章 芸能と儀式】

今日は、芸能についてです。

紹介するポイントは3つです!

・芸術と芸能の違い
・歌は命のそのものである
・ものまねは自己超越の手法

・芸術と芸能の違い

「芸術」と「芸能」の違いは何か?美術家の森村泰昌によれば、「芸術」とは深く行き着くことが目指されている世界であり、「芸能」とは人々に広く行き渡ることが目指されている世界である

P246

芸術と芸能は、どちらも
それぞれに「カタ」を持ち
人びとに受け継がれてきたもの…
ではありますが、その違いは
「目指しているもの」
にあります。

芸術=深く行きつく
芸能=人々に広く行き渡る

これは、言われてみると
ピンとくるのではないでしょうか?

芸術というのは
芸術家が自らの深いところにある
なにかを表現して生まれてくる

芸能というのは
多くの人々に対して
楽しませるように訴えてくる

このような違いがあるわけです。

・歌は命のそのものである

次は「歌」についてです。

この章には中々刺激的なことが
書いてあります。

宗教哲学者の鎌田東二は、『歌と宗教』(二〇一四年)の冒頭に「人間は、歌うために生まれてきた。歌とは命そのものであり、命は歌なのである」と書いている。

P247

そして、このことを表現しているのが
紀貫之の『古今和歌集』の「仮名序」である
と言っています。

特に重要な部分が

生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける
力をも入れずして天地を動かし、

P248

であって、これは
『森羅万象は歌を歌っている』
そしてその歌は
「力を入れずして天地を動かす力がある」
と言っているわけです。

そんな大げさな…と
思うところもあるかもしれませんが

例えば、
「今日仕事に行きたくない」と思った時
好きな歌を聞いたり
歌ってみると気分が良くなって
意欲がでてきたりしませんでしょうか?

歌の力…というのを
感じたことがある人は多いと思いますが
それを
「歌は命そのものである」
とまで言い切っている人も居る
…ということなんですね。

・ものまねは自己超越の手法

最後はものまねの話です。

先ほどの宗教哲学者 鎌田さんは
「心身変容の技法」を研究する中で
「物を真似る」=自己超越の一つの形
だということを指摘しています。

能の芸術性を確立したと言われる
世阿弥の話を紹介します。

世阿弥は「物まね=俳優」が神懸りというシャーマスティックな心身魂技法に連なることを明確に意識していた。実際、世阿弥は物真似の奥義が老人の真似にあると指摘しているが、この老人すなわち翁こそが日本人の原型的な神の表象であったことを見れば、それが「神を真似る」、つまり「神を招く」わざであり、ついには「神懸り」に行き着くという。

P261 

物真似の奥義=老人の真似

老人=翁は日本人の中での「神」のイメージ

だから老人の真似=神の真似であり

物まねは「神懸り」に行きつくのだ

…という論法です。

物真似の奥義が老人の真似…というのは
あまりピンときませんが
世阿弥さんが言うなら
きっとそうなんでしょう。

日本の神のイメージが「老人」というのは
なんとなくわかりますよね。

七福神の恵比寿様とか布袋様とかも
おじいちゃんですから。

物真似が自分という一人の人間を超えて
「神」に行きつく技…というのは
今の感覚だと、しっくりきにくい
かもしれませんが、
その位に「真似る」という行為には
力があるんだ
…ということだけ
納得しておけばいいのかな、と
私は感じています。

まとめ

・芸術と芸能の違い

芸術=深く行きつく
芸能=人々に広く行き渡る

・歌は命のそのものである

紀貫之は古今和歌集でこう言っていた

『森羅万象は歌を歌っている』
そしてその歌は
「力を入れずして天地を動かす力がある」

・ものまねは自己超越の手法

物真似の奥義=老人の真似
老人=翁は日本人の中での「神」のイメージ
だから老人の真似=神の真似であり

物まねは「神懸り」に行きつく


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