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読書の目的ってなんだろう?

こんにちは、らるです。

皆さんにとって
読書の目的ってなんですか?

楽しむためですか?
勉強のためですか?
目的なんて意識してないですか?

今日は、ショーペンハウアーの
「読書について」を題材にして
『読書の目的』を考えます。

ショーペンハウアーは
『読書の目的』を
「自分の才能を見つけ、伸ばすため」
「自分の思想を強化するため」
と言っています。

この『読書について』における
最も強い主張の一つが

『良書を読むための条件は、
 悪書を読まぬことである。』
新しい、皆が飛びつく本を読む必要はない。
 
あらゆる時代、あらゆる民族の生んだ
 天才の作品だけ熟読すべきである』
『努めて古人を読むべし。』

といったこと…つまり

古くから生き残り続ける本こそが良書

あり、世の中の大半の本は悪書である。

…ということです。

かなり強烈な言葉ですが
一つの真実を言い当てていると思います。

今日出版された本の中で
20年、30年後にも
買われ続ける本が
どれだけあるでしょうか?
ほぼ、0に近いでしょう。

そこまでの価値のある本を
新しくでた本の中から探すのは
至難の業
です。

ですが、既に何十年も生き残っている
=価値が認められてる本を
見つけるのは容易
です。

それが、古典というわけです。

ショーペンハウアーは
「読書」を
「他人に考えてもらうこと」
だと述べてます。

そして
「他人に考えてもらって」ばかりでは
「愚者になる」と言います。

じゃあ、どうすればいいか。

ただ読むだけでなく
「熟慮」する必要
があります。
読んで受けれるだけでなく
自分で深く考えよ、ということです。

これは、食べ物を食べた時の消化と
一緒の過程です。

熟慮=消化をして
はじめて自分の身につきます

ですが、決して
読んだもの全てが身につくわけでは
ありません

食べ物を消化したあと、
それが実際に体につくのはほんの一部
殆どは、エネルギーとして使われるか
捨てられてしまいます

『熟慮した読書も、消化と全く同じ。
身につくのは50分の1程度だろう』

と、ショーペンハウアーも言っています。

さて、では、読書から身につく
そのほんの僅かなものは
なんなのでしょうか?

その答えの例になるのが
冒頭に挙げた
「自分の才能を見つけ、伸ばす」
「自分の思想を強化する」
です。


まず「才能」の方からです。

ショーペンハウアーは
こんな風に述べています。

本を読んでも
著作者の才能は一つも貰えません。

『ただ、読者自身が
元々その「才能」を持っているなら

読書によって、それを呼び覚まし
その才能の取り扱い方を
知ることが出来ます。』

つまり、
読書で「学ぶ」のではなく
読書で「気づく」

(=元々もっている才能が目覚める) 
ということです。

自分の才能に合った本に出会い、
それを消化=熟慮する
ことが必要である、ということです。

次は、「思想」の方です。

とはいっても、これについては
先程の「消化」の話と
似たものになります。

食べたものの中で、
肉体に合うものが
肉体と同化してくのと同じように

読んだものの中で、
精神・思想に合うものが
自分の精神にとどまっていく

ということです。

才能を見つける。
自分の思想を作る

これって、
自分を探すことだ
私は思います。

読書、すなわち
「過去の人達が残した本を読み
 自分なりに考えを深めること」
の目的は『自分探し』である。

今日のまとめ

自分を探すために
(=才能を見つける+思想を作る)
良書(長く生き残ってる古典)を読み
熟慮(=消化)しよう!



…以下、余談…

最近良く取り扱っているヒトラーは、
以前に紹介した通り
読書を「一般的世界像を媒介するもの」
『自分の中にある真理を
  見つけるための橋渡し』

と言っていました。

これも、なんとなく
ショーペンハウアーの考えに通じる
思いませんか?

実際、ヒトラーは
ショーペンハウアーに影響を受けた
と言われています。

今日、この記事を書いたのは
ヒトラーのことを調べていて
以前に読んだ
ショーペンハウアーのことを
思い出したからなのでした。

最後まで読んでいただき
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