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宗教の原点【儀式論 第5章 宗教と儀式】

宗教…というと
少し怖いイメージがありますよね。

古くはオウム真理教の事件
近年であれば
イスラム国による事件…など

過激な事件と結びついて
記憶されている部分があったり

あるいは、
しつこい勧誘にあったり…

といったところから
くるイメージかと思います。

そんな宗教ですが、実は、
「人間は宗教なしには生きていけない」
と、本書の著者は言います。

実際にこれまでの人間社会の中で

宗教的信仰と儀礼を持たなかった社会は
一つとしてなかった

と言うんです。

宗教的信仰と儀礼を持たなかった人間社会は、記録されている限り一つもないという事実と、宗教的信仰と儀礼は、人類の地理的、文化的多様性の大きさにもかかわらず、類似した変遷パターンをたどっているという事実は、二重に驚くべきことだ。(ルノワール『人類の宗教の歴史』)

P169

人間というのは
どこにいても
どんな文化があっても
必ず似たような宗教的信仰と
儀礼を持っていた
…というんですね。

私たち日本人で
無宗教…と言っている人も
初詣に行ってみたり
クリスマスを祝ってみたり
ハロウィンを楽しんでみたり…

宗教的な儀礼は
結局やってしまっていたり
するものです。

宗教はイメージと儀礼でできている


では、その人間に必須の
「宗教」はどのように成り立っている
のでしょうか。

社会学者デュルケムの言葉を
聞いてみましょう。

デュルケムは
「宗教はすべて表象と儀礼的行事から成り立っている」

と言っています。

表象というのはイメージのことです。
イメージと儀礼から成り立っているのが
宗教
である、ということですね。

実際には目の前にいない神や
不思議な力を感じる必要があるわけですから
イメージが必要…というのは
なんとなくわかると思います。

では、儀礼は何のためにあるかというと
儀礼は神話を再現するためにある
んです。

宗教はただ一回きりの秘蹟である神話に頼っていては永続できない。そのためにその模倣であり再現である儀礼によって、そのつど神の恩寵を確認する必要が生じるのである。

P171

儀礼が、神話を思い出させるんですね。

逆に言えば、儀礼無しでは
神の恩寵を忘れてしまう…
ということなんでしょう。

デュルケムはさらに
宗教に関して
こんなことを言っています。

デュルケムは「宗教力」という言葉も使っている。
宗教力とは、一体化された集団力であり、言い換えれば人間力であり、道徳力であるという。

P171

宗教力=集団力=人間力=道徳力
であると言うんです。

確かに、人は集まらなければ
生きられない生き物です

宗教は、人を結び付け
互いに気持ちを高め合います

結びつき、気持ちの高まりは
人間が生きるために
必ず必要なものですから
宗教力=人間力…というのも
あながち間違いではなさそうだな、と
私は思います。

宗教の基礎「ヌミノーゼ」

さて、宗教の基礎についても
本書では触れられています。

ドイツの宗教学者ルドルフ・オットーが書いた
『聖なるもの』という書物に出てくる
『ヌミノーゼ』という概念です。

同書のキーワードである「ヌミノーゼ」とは、それ自体が非合理なもの、つまり概念としては説明できないものであるという。(中略)
それはときとしてわたしたちの内部で困惑するほど激しく心情を揺り動かし、支配するようなものであるという。

P186 

このヌミノーゼは言葉として説明するのが
むずかしいものですが

激しく心情を揺り動かし
支配するようなもの…
 ということで

オットーの言葉では
『戦慄すべき神秘』であると言われています。

現代風の感覚で言えば
『推し』を見たときに感じる
『なにこれヤバい…尊い…』
的なもの
かと思います。

宗教の基礎はこの
ヌミノーゼを探求するため
だというわけです。

そのために儀式をしたり
モニュメントを作ってみたり
寺院や教会を建てたりする
…というわけですね。

まとめ

人間は必ず宗教と共に生きてきた

デュルケムは
宗教はイメージと儀礼でできている
と述べ
宗教力=集団力=人間力=道徳力
であると述べた。

オットーは
宗教の基礎は聖なるものに対する
戦慄すべき神秘を感じること…
ヌミノーゼを探求することにある
と述べた。




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