「忘れる」は「健康」の源である ニーチェ『道徳の系譜学』
私たちは、学校や仕事の場で
さまざまなことを
覚えておかねばならない。
だから、忘れる=困ったこと と
捉えがちである。
しかし、ニーチェは、
この人間の「忘れっぽさ」なしでは
いかなる幸福も、明朗さも、
希望も、誇りももてないし、
いかなる現在もありえない
と言っている。
…
「忘れる」ことは一つの「能力」である
この「忘れる」能力のおかげで
どういう恩恵が得られるか。
わたしたちがこれまで体験し。
経験し、自分のうちに取り入れたものが
熟れるまで(「精神に同化」されるまで
は、と言い換えることもできるだろう)、
意識にのぼらないですむのである。
それはわたしたちの身体にとって
栄養となるものが「身体に同化」される
無数のプロセスが、意識にのぼらないのと
同じことである。
白紙状態を確保して、
新しいものをうけいれるべき場所を
作りだすこと、とくに高尚な機能と
器官が働く余地を作りだして、
統制し、予測し、予定を立てられる
ようにすることである
自分のモノになっていない
様々な経験・体験を忘れることで
頭のなかに「白紙」を作る
それによって、新しいモノを
受け入れることができる
…
そして、この「忘れる」ことが
できていない人間がどうなるかに
ついても述べている。
この抑止の装置が
損傷をうけているか、
停止している人間は、
いわば消化不良に陥っている
ようなものであり(これは
単なる比喩ではない――)
何ごとも「片づける」ということが
できないのだ。
自分のモノになっていない
経験・体験・知識は
意識の外に放って、忘れてしまう
これができないと
消化不良になる というのだ。
…
自分のモノにならない
意識しても意味のないこと
例えば、過去の失敗「そのもの」を
思い出すことがそれに当たると思う。
失敗した時の嫌な気持ち
陰鬱な感情は意識しても
何も良いことはない。
今の自分の活動を阻害するだけである
失敗から「得た教訓」だけを
自分のモノとしたら
あとは忘れてしまうのが良い
陰鬱な感情を反芻することに
意味はない、消化なんて
できないものだと思う。
忘れっぽさは人間においては
一つの力であり、
逞しい健康の一つの形式である。
「忘れる」は健康の源である。
…