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人間の本来的な生き方とは【あした死ぬ幸福の王子⑤】
こんにちは、らるです。
前回から少し間が相手しまいましたが
こちらの本の続きを紹介していきます。
今日は、人間の本来的な生き方についてです。
これまでの話の中で
人間は、自分以外の存在を道具としてみなしている
自分自身は本来、かけがえないのモノ
目的そのもの…であるはずなのに
他人から道具として見られ続けるうちに
『自分でも自分のことを道具だと思ってしまう』
ものである、ということ
死というのは
避けられないものであり
死を思い出すことで
『自分は道具ではない』ことを
思い出せる…ということ
をお話しきました。
ここから考えてみると
本来的な生き方というのは
本来的な生き方
=交換不可能な、道具ではない生き方
=自己の固有の存在可能性を問題とする生き方
=自分の人生とは何だったのかを問う生き方
=死を意識した生き方
ということになります。
ただ、私たちは
『非』本来的な生き方をしてしまっていることが
多いです。
例えば、『おしゃべり』や『好奇心』で生きる
というのも『非』本来的な生き方です。
そうすると、一つ疑問が出てきます。
別に、死なんて忘れて
ただ、楽しく、おしゃべりして
好奇心に従って生きていてもいいんじゃない?
ありか、なしかで言えば
『あり』ではあるんです。
ただし…
「その選択が、本当に自己の固有の生き方、つまり『自分オリジナルの存在のあり方』として自分で選び取ったものであれば、かまわないさ。しかし、そうではないのなら──つまり、おしゃべりと好奇心の熱に浮かされて、薄ぼんやりとした意識の中でなんとなくそういう行動をしているだけだとしたら──それは選択とは言わない。判断能力を失った酔っ払いが、酔いの勢いで何か行動をしたとしても、それは決して選択ではないだろう? そんな判断能力に欠けた状態での行動に基づく生き方は、幸福でもなければ、かけがえのないおまえの人生でもない」
『判断能力を失った酔っ払いが、酔いの勢いで何か行動をしたとしても、それは決して選択ではないだろう? そんな判断能力に欠けた状態での行動に基づく生き方は、幸福でもなければ、かけがえのないおまえの人生でもない』
このあたりは、なかなか辛辣ですが
しっかりと「自分の人生とは何なのか?」を
自分に問うことをしたうえで
「やはり私は、おしゃべりや好奇心のために
生きているんだ!」…となれば、それでもいい
というわけです。
もし、そうでなければ
やはり、人生が残り少なくなったとき
「私はなんで、こんなことに時間を使っていたんだろう
もっと大事なことがあったはずなのに…」
…となってしまうでしょう。
今、このときも
「自分の人生の意味は何なのか?」を
問わないままに、なんとなく行動しているのなら
もしかすると、自分にとって
『本当はどうでもいいこと』に時間を
つかってしまっているかもしれません。
そう考えると、なんだか怖くなってきますね。