古代ギリシア人「それ、神のせいなので!」
ニーチェ『道徳の系譜学』では
キリスト教の神像を人間を
ニヒリズムに導くものとして
批判している。
一方で、古代ギリシアの神を
肯定的に紹介している。
第二論文 二三
キリストの神とギリシアの神 より
高貴なギリシア人たちは、
同胞のギリシア人たちが犯した
理解しがたく残酷で
非道な行為を眺めて、
そう自問したものだった。
そして彼らはついに頭を振りながら
「神が頭を狂わせたに違いない」と
独語したのである……。
この逃げ道は、
ギリシア人に典型的なものだった……。
その頃の神々は、人間がなした悪事に
ついてなんとか言い訳するために
役立ったのだ。
神に人間の罪を引き受けさせた
これが古代ギリシア人の姿勢である
「悪いことしてるなぁ…」
「うん! これは神が悪い!」
これがギリシアスタイルである。
…
どうだろうか?
自分勝手なように映るだろうか?
私も、直感的にはそう思う。
ただ、同時に健康的だな、と思う。
…
今、いわゆる「良心」を
(ニーチェ曰く「疚しい」良心)
強く持つ人というのは
自分を責める
自分の価値を疑う
ということに走りがちであり
極端に走れば
自分の心身を傷つける
罪を自分で引き受ける姿勢を
立派と思う人もあるかもしれない
ただ、本人は傷ついている
自分を傷つけることは
立派なのだろうか
仮に立派だとして
それは健康な生き方なのだろうか
心身の力を、自ら奪っているのでは
ないだろうか?
…
罪は神にまかせて
自らはわるくないと
堂々とイキイキと生きていくほうが
健康的ではないだろうか?
「良心」による
罪の意識に苛まれながら生きるより
ギリシアスタイルで
「無罪」の人生を生きたほうが
自由に、のびのびと生きられる
のではないだろうか?
この、古代ギリシア人の
神の「利用法」には
学ぶべきところがあるように思う。
…