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「集団」>「個人」【C・リンドホルム『カリスマ』⑦】
前回は、マックス・ウェーバーの
話をしていきました。
ウェーバーが言うには
人は、心の通じ合いを
人間が絶対的価値を持つもの
であり
そのつながりが薄くなった時代には
「カリスマ」を強く求めるようになる
ということでした。
人と人との相互作用…
集団の大切さに触れつつも
あくまでもそれは
個人の心理として求めるもの
というのがウェーバーの立場でしたが
それとは違うことを言う人が
紹介されています。
エミール・デュルケムです。
…
人の二種類の意識
「人間は社会に属する限りにおいて、思考と行動の両方で自分自身を超越する」
デュルケムは
人には「二種類の意識」があって
一方は「個人的自我」
他方は「集団的自我」
である…といいます。
そしてこの「個人」と「集団」の自我は
相互に矛盾し、相互に否定しあう
とも言っています。
つまり、
「一人の自分」と「集団の中の自分」は違うもの
ということです。
これは、ここまで紹介してきた
学者たちの説に真っ向から反するものになります。
ウェーバーまでの人たちは
「一人の自分」の好み、求めるもの…というのが
第一にある…と考えていました
しかし、デュルケムは
「集団」が動く理由は
「個人」の好みよりはるか上位にある
と言ったわけです。
…
集団のエネルギ―の源泉
この集団が動く力が
どのようにして生まれてくるか
…というと、
実は「集まると自然に発生する」
というのがデュルケムの説です。
デュルケムはまた、原初的群衆の物理的エネルギーは自然発生的な運動や、集合することによって感情的刺激を受ける参加者たちの喧騒から自然に生じてくるものである、と信じた。こうした衝動の噴出は、集団全体のなかで、それが直接的に模倣され、拡大され、共振作用を引きおこすにつれ、伝染病のように広がっていく。
(中略)
昂揚、陶酔、自己喪失といったこのような自動的な身体的経験を、デュルケムは「集合的沸騰」とよび、それこそまさに「聖なるものの原型そのもの」、あらゆる宗教的儀礼の原型、あらゆる形態の人間共同体の核心である、とした。
集団があつまることで
自然に生じたエネルギーは
模倣され、拡大し、共振して
伝染病のように拡大…
その中で人々は
昂揚し、陶酔し、自己と他者との
境目を感じなくなっていきます。
これを「集合的沸騰」と呼びます。
「集合的沸騰」が
「聖なるもの」「宗教儀礼」の原型で
「あらゆる人間共同体の核心」だ
というわけです。
…
デュルケムは『指導者』をどう捉えたか
個人の好みではなく、
集団としての単位での好みで
人は動く…というのがデュルケムの
考えでしたが
では、デュルケムは集団の指導者
『カリスマ』をどうとらえて
いたのでしょうか?
実は、指導者は
集団における単なるシンボルである
という捉え方をしています。
崇拝される指導者とは一人の個人ではなくて、むしろ「受肉し、人格化された集団」にすぎない。
指導者は「個人」ではない
「集団」が受肉化された姿だ
ということです。
集団の中から、たまたま
集団のシンボルとするにふさわしい
人がいれば、それが指導者として
扱われるにすぎない…というわけです。
…
ウェーバーとデュルケムの共通点
第3章のまとめとして
ウェーバーとデュルケムの共通点が
紹介されています。
またウェーバーとデュルケムは、いずれも人間性に関する一定の前提から出発している。とりわけそれは、人間は力強い自己超越的経験へむかう傾向性を有しているという仮定である。集合的儀礼への参加や強烈な感情の刺激はエクスタシー的な自己喪失へ到達するための方法とみなされ、それはカリスマ的経験の創始者(ウェーバーの場合)やシンボル(デュルケムの場合)となる人物のまわりにしばしば収斂していくものとされる。
(中略)
カリスマ的魅力と自己喪失のこうした関係はつかの間のものであり、過度のエロティシズムと同様の疲労をもたらさずにはおかないものであるけども、それでもなおそれは希望と忠誠心の水源であり、恐怖や敵意、またきびしく孤独な社会的世界で生きのびていくための闘いに必要な条件によって引き裂かれた人類に、よりよき世界という感情的な真理をあたえるものである、という信念がそれである。
個人の選好が先か
集団的自我が先か
という違いはあるものの
どちらにしても人間は
「自己超越的経験」に向かうこと
そして、それは
「感情的な真理」をあたえるものだ
ということに関しては
一致しているというわけです。
…
まとめ
デュルケムは
個人的自我より集団的自我の方が
より上位にあると言った
人が集まって発生する
「集合的沸騰」が
あらゆる共同体の核である
ウェーバーもデュルケムも
人は「自己超越的経験に向かう」という点
そしてそれが「感情的な真理」を与える
という点においては同じことを言っている
続き