![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/128200331/rectangle_large_type_2_2047a65d6192fa6829725fa8e1bfc38e.png?width=1200)
プラトン『饗宴』解説(第1章)
読解の前提
歴史的背景
p255の「解説」にある通り、ここで語られている「饗宴」の様子は紀元前416年とされており、プロローグでアポロドロスとその友人がその様子を追憶しているのはそれよりかなり後の時代である(p226の記述の通り、ソクラテスが刑死する少し前、紀元前400年頃と推定されている)。
本作を執筆した時期のプラトンは、イデア論の理論的構築に取り組んでおり、その過程の中で「人間がイデアの認識に至るには、知恵の愛という特別な欲求が必要であり、それはエロスという人間の根源的な欲求が生み出されるという事実に気づいたとされる。
プラトンは、少年に対するソクラテスの愛も、知恵への愛の一環であると捉え、ソクラテスのエロスの真実の姿なのだと考えるに至った。そして、そのようなソクラテスのエロスの姿を描き出すことによって、ソクラテスに対する根深い誤解(=「ソクラテスがアルキビアデスと少年愛の関係にあり、彼の精神に良からぬ影響を与えたのだという勘ぐり」)を取り除こうとしたのではないか(pp.204-205)。
文化的背景
<饗宴について>
饗宴(シュンポシオン)は「共に酒を飲む」という意味を持ち、古代ギリシアの男性社会における重要な社会的風習だった。
この男たちのためのパーティは、「アンドロン(男部屋)」と呼ばれる男性専用の部屋で行われていた。会場には壁沿いに「クリネ」と呼ばれる寝椅子が並べられ、一つのクリネに2人の男性が並んで横になり、食事ができるようになっていた。
クリネの配置には意味があり、部屋の中央に向かって左方向が上手、右方向が下手であり、最も上手のクリネが上席、最も下手のクリネが末席だったと考えられている。本作の演説合戦は、上席から末席に向かって、反時計回りに行われていくが、これは「左から右へ」(エピ・デクシア)と呼ばれるもので、饗宴において料理が給仕され、酒が回されていく順番でもあった。
以上の背景と、『饗宴』における会話の順番からすると、本作の饗宴のクリネは以下のように配置されていたと推察される(p212)。
<エロスについて>
古代ギリシアには、「愛」を意味する単語が複数存在する。エロス以外にも、フィリア(家族愛など、相互的な友愛)やアガぺー(広い意味での好意)などがある。この2つと違って、エロスはもっぱら性的な意味での愛を指す言葉である。
本作におけるエロスを語る上で欠かせないのが、「パイデラスティア」(少年愛)と呼ばれる古代の性風習である。これは成人した男性と成人前の少年が性的な関係を結ぶものであり、古代ギリシア・ローマ世界に広く普及していたとされる。
キリスト教布教以後のヨーロッパ世界では、パイデラスティアはタブー視されてきたが、それは今日の我々が想像するような同性愛(ホモセクシュアリティ)とは様々な点で異なっている。
第一にそれは成人男性同士の関係ではなく、成人男性と少年との間の関係である。
第二にそれは対等な関係ではなく、成人男性が「愛するもの」であり、少年が「愛されるもの」として規定され、少年は成人男性に対して奉仕する役割を厳命されており、快楽を求める行為を禁じられていた。エロス的快楽の主体は常に成人男性の方にあり、少年が成人男性に抱く感情はフィリア(友愛)でなければならなかった。
第三に、この関係は少年が成人すれば解消されるものであり、かつ一対一である必要はなかった。また、女性との愛と共存可能だった。
(その点と連続して)第四に、パイデラスティアは教育的な機能を持っていた。それは愛の形であるのと同時に、少年が男性社会に仲間入りしていくためのイニシエーションのようなものであり、成人男性の側には、社会常識や価値観を少年に教え、一人前の男に育てる義務があった。
古代ギリシアの男性にとって性とは、常に「能動ー受動」の関係で把握される非対称的な関係であり、その点で現代の相互的な異性愛とは決定的に異なっていた。この非対称性・非相互性ゆえに、エロスはイデアへの愛と接続されてゆくことになる(のかもしれない)。
プロローグ
アポロドロス(=ソクラテスの弟子で、この物語の語り手)の友人が、アガトン(=アテネの悲劇詩人。本書のタイトルになっている「饗宴」の主催者)のところであった「愛(エロス)」についての集まりについて問いかける(p17)。
しかしアポロドロス自身はその集まりには参加していない。というのも、それは彼がソクラテスの仲間に加わるよりもかなり前の話だからである(p18)。
そこでアポロドロスは、同じくソクラテスの弟子であるアリストモデスから聞いた話を語り始める(pp.18-19)。
道を歩きながら(*1)、2人は話し始める。哲学に熱狂する一方、「金持ちの実業家連中の話」を疎んじるアポロドロスに対して、呆れた友人は以下のように言う。
「相変わらずだな、アポロドロスくん。きみはいつも、自分と他人の悪口を言ってばかりだ。さしづめ、この世の人間は、ソクラテス以外みんな哀れだとでも思っているのだろう——きみ自身を筆頭にしてね(*2)」(p21)
第1章 宴の始まり
アリストモデスは、入浴を済ませてサンダルを履いたソクラテスに、ばったり出会した。
アリストモデスが理由を尋ねると、ソクラテスは「アガトンが食事に招いてくれたんだ。綺麗な人のところには、綺麗になって行かねばならないからね」と答えた(*3)。(p23)
ソクラテスは、アリストモデスもこの集まりに来てはどうかと誘った。アリストモデスは恐縮しながらも、ソクラテスについていくことにした。(pp.24-25)
ところが道の途中でソクラテスは考え事に耽り、遅れ始めた。そこでアリストモデスは先にアガトン邸に行くことにした。
先に邸宅に到着したアリストモデスは、アガトンに手厚く迎えられる(p26-27)。だが相変わらずソクラテスは来ない。ただそれは「よくあること」だとして、挨拶もそこそこに食事が始まる。(pp.28-29)
食事が半ばに差し掛かった頃、ようやくソクラテスが到着する(p29)。末席(=最も下手の席で、通常は主人[この場合アガトン]がこの席につく)で一人で横になっていたアガトンは、ソクラテスを迎え入れて次のように言う。
「さあ、ソクラテスさん、どうぞこちらへ。私の隣に来て、横になってください。そうすれば、私はあなたに触れて、あなたの知恵を分けていただきたくことができます。玄関先であなたに訪れた知恵をね。
わかっていますとも。あなたは知恵を見出された。そして今、それをお持ちなのです。さもなくば、あなたがその場を離れるなんてなかったでしょうからね」(pp.29-30)
この歓迎に対して、ソクラテスは一流のアイロニーを持って、次のように応じる。
「アガトン、僕たちが互いに触れ合うだけで、知恵に満ちた側から空っぽの側へと、知恵が流れていってくれるなら、ありがたいことだ。まるでコップの水が糸を伝い、満ちた側から空っぽの側に流れていくようにね。
もし知恵がそのようなものなのだとしたら、僕は、君の隣に横になれることをとてもありがたく思う。君からたくさんの美しい知恵が流れ込み、僕を満たしてくれると思うからね(*4)」(p30)
ソクラテスは、他の人たちと一緒に食事をして、一連の必要な儀式を執り終えた。(p31)
いよいよこれから飲み会という段になって、パウサニアス(=アガトンの恋人)が、深酒を控えることを提案し、アリストファネス(=アテネの喜劇詩人)、エリュクシマコス、パイドロスをはじめとして、その場にいた全ての人がこれに賛同した。(p32-33)
一連の賛同を踏まえ、エリュクシマコスは部屋にいた笛吹女を退出させ(*5)、仲間だけにさせた(pp.33-34)。
エリュクシマコスは、パイドロスの言を引きながら、創世の神の一人である偉大なるエロスについて、これまで詩人たちは全く賛美してこなかったと訴え、次のように提案する。(pp.34-35)
「私はね、パイドロスがこんな不満を述べるのも、もっともだと思うのだ。そこで私は、この人のために一肌脱いで、喜ばせてあげたいのだよ。しかし、それだけではない。いま、この神を言葉で美しく飾りつけることは、ここにいる私たちにふさわしい仕事ではないかと思うのだ」(p36)。
その上で彼は、(一番手の席に座っていて、話題の生みの親でもある)パイドロスを起点として、左から右へ順番に、できる限り美しい話をして、エロスを賛美することを提案した(p36)。
ソクラテスはエリュクシマコスの提案に賛同して、次のように言った。
「まず、この僕は反対できそうにないね。なにしろ、僕は、エロスに関すること以外、なに一つ知らないのだからね(*6)。また、[恋人同士である]アガトンとパウサニアスのご両人も反対できないだろう。アリストファネスだってそうだよ。なにしろ、この人の仕事は、もっぱらディオニソスとアフロディテへのご奉仕なのだから」。(pp.36-37)
こうして、パイドロスから、めいめいエロスへの賛美を始めることになった。(2章へ続く)
論点(上記レジュメの"*"の番号と対応)
歩きながら話すことに意味はあるのか?
ホメロスの『イリアス』第10巻222-226行の<二人で一緒に道を歩きながら>に由来する?
プラトンが創設した学園アカデメイアの伝統——「逍遥学派」との関連かもしれない。
本書『饗宴』は愛=エロスについての考察であるのと同時に、愛をめぐる物語でもある。ソクラテスと、彼を恋慕する弟子たちとの間の愛、エロス、饗宴。
ここには、少なくとも2つの愛が既に描かれている。
ソクラテスからアガトンへのエロス(性愛)と、アリストモデスからソクラテスへのフィリア(友愛)である。
※アリストモデスとソクラテス、アガトンとソクラテスはそれぞれ師弟関係にあり、パイデラスティアの関係にある?パイデラスティアの関係における、少年愛による教育に関連する内容か。
饗宴の部屋には笛吹女も入って良いことになっているが、本格的な議論には邪魔とされたのか?
なぜ、何も知らないのではなく、エロスについては知っているのか?
ソクラテスは「何も知らない」が、知ることへの愛は持っており、それがエロスを媒介として生じているのではないか?