2020年12月2日
何気なく流れてきた某教授のつぶやきを読み,半年あまり,自分が何に対して怒り,失望,やるせなさを感じていたのか気づいた.
最近,ホスピスに入院しているある女性に何気なく問いかけられたことがある.
患:「私がコロナに感染したら,どうなりますか?」
私:「60代で基礎疾患があるから・・・数%で重症化して亡くなるかもしれませんね・・・」
患:「私は正月は迎えられないと言われているのです.それまでにこの制限は解除されて東京の息子や孫に会うことが出来ますか?」
私:「・・・・・」
患:「私は誰のために我慢しているのでしょうか.たぶん,ここに入院している人もみんな同じなんじゃないかしら・・・私たちは私たちのために生きることはわがままなのでしょうか?」
私:「・・・・・」
患:「困らせてごめんなさいね.もう,生きて会えないって息子たちとは話してあるからいいの.息子たちが東京から来たら,皆に迷惑がかかるでしょ.私に会うためには,息子たちはこちらに来てから14日間もホテルで待機しないといけないと聞いたわ.そんなことはさせられない.息子に迷惑はかけたくない.私はひとりでここで死んでいくんだなって,納得しているから.あきらめているから」
視線の先には,幸せそうな息子一家の団らんの写真が飾ってあった.
私は何も言えず部屋を後にした.もちろん,巷で話題の「オンライン面会」などは入院時に案内してあるが,そこでそんな野暮な提案をすることは私にはできなかった.
私が毎日出会う人々はの大半は,1ヶ月以内にこの世を去る.かつては,残された限られた時間を苦痛なく,如何に本人にとって有為なものにするかに情熱を燃やしていた.
死ぬ前にあの場所へ行きたい,あれを食べたい,あの人に会いたい,何かをしてみたい,成し遂げたい・・・苦痛を取り除きながら,ひとりひとりの希望を叶えるお手伝いをすることが緩和ケアの醍醐味だと考えていた.もちろん,叶えるのは無理なことが多いのだけれど,その方向にともに歩むことそれ自体が本人にとって,そして私にとっても有為なことだった.
このtweetの「来年がある。別にこれで終わりじゃない。」という言葉は,来年がない「彼ら」にはどう響くのか.ツイ主だけではない.このつぶやきにいいねを押した,(現時点で)FBで1052人,Twで6260人,さらにこの社会に生きる多くの人々は自分には「来年がある」のが当然と思っているのだ.社会全体に渦巻く「大切な人のために今は我慢」という言葉の裏には,自分たちには明日があるからというメッセージが込められている.
私はその言葉の無神経さに憤り,苛立ちを感じているのだ.なんておめでたい人たちなんだろう.なんて傲慢な人たちなんだろうと.
私は毎日「彼ら」と過ごすうちに,いつのまにか「彼ら側」に自らの立ち位置を置いてしまっているのだ.
そもそも私は未来のために今を犠牲にすることは出来ない質だ.「将来のため」に勉強したこともないし,「長生きするため」に節制も出来ないし,「老後のため」に貯金することも未だに出来ない.刹那的に生きることしか出来ないのだ.仕事も,住処も人付き合いも,嫌になればすぐに変える.
今もできる限りの感染対策をしながら,会いたい人には会うし,食べたいものは食べるし,大切にしている行事には参加する.それを医療者としての自覚が足りないと糾弾されるなら,今を大切に生きるために医師をも辞めるだろう.
きっと,私は非常識で非国民でオカシイのだろう.ただ,最後の一言「短見だよ」はそっくりそのまま教授にお返ししたい.