抑揚を持たない宇都宮誠弥と、彼のモラトリアムな年(20)

窓ガラスを叩く音がした。事務の丸い女だろうかと思って目を開けると、ミンソが微笑んで見下ろしていた。手招きしている。まだ夜は明けていなかった。後部座席の太田はいびきをかいていた。宇都宮は太田と自分を交互に指さし、「二人とも?」とジェスチャーでミンソに聞いた。ミンソは首を振り、宇都宮を指さした。宇都宮は再度、太田の様子をうかがい、物音を立てないように車の外へ出た。
ミンソはそうするのが自然なことであるかのように、宇都宮の手を取った。まだ酔っているのかもしれない。宇都宮はどぎまぎし、「トゥーンは?」と周囲を見回したが、誰もいなかった。ミンソはまた首を振り、宇都宮を見て微笑んだ。これは、大丈夫ってことだよな。宇都宮は自分の中で検証し、ミンソの手を握り返した。

それから宇都宮とミンソは夜道を歩いた。大学裏の斜面を上りきり、ファミレスに行った時とは反対の方へと歩いた。ガードレール替わりのフェンスがところどころ歪んでいた。雑木林の前に腰くらいの高さの真っ赤な鳥居が立っており、奥に同じくらいの高さの社があった。賽銭箱の脇にはワンカップ酒が置かれていた。梁の左右にイノシシと龍が彫られ、イノシシは口を閉じ、龍はあけていた。
コインランドリーがあった。看板はまぶしいくらいに光っており、洗濯機も回転していたが、人の姿は見えなかった。自分たち以外、起きている者は誰もいないようだった。宇都宮とミンソは何もしゃべらなかった。黙っていてもお互いを感じられた。しゃべる必要がなかった。行き先も決まっていないが、かまわなかった。
線路沿いに出た。電車はもう走っていない時間だった。線路の下が歩行者用のトンネルになっていた。中は暗く、蛍光灯が切れかけてチカチカした。
トンネルを抜けると石塀の崩れかけた家があった。砂利敷きの駐車場に青い車が止まっていたが、石塀同様、家の外壁もぼろぼろで人の気配はなかった。雑草が石塀を超えて垂れ下がっており、大男が塀に手をかけて身を乗り出そうとしているように見えた。皮がぎざぎざし、とがった葉が放射状に伸びる南国っぽい木も植わっていた。そうかと思うと向かいの家には庭木が一切なく、ブロック塀を高く積み、屋敷のような黒い瓦屋根がのぞいていた。自分が今どこにいるのかよくわからなくなった。塀の上で白い猫がこっちを見ていた。
橋があった。石の手すりの周囲は手のような形の葉で覆われていた。葉の隙間から下をのぞくと川が流れており、サギが一羽、立ったまま眠っていた。
橋の角は家庭ゴミの集積所になっており、ネットが丸められていた。ばきばきに折れたビニール傘が捨ててあった。汚れたダンボールからブラウン菅のテレビがのぞいていた。「笑顔であいさつ町内会」という標語と、ニコニコマークの描かれたノボリが立っていた。下の方が破れていた。

坂がきつくなり、山っぽさが増した。植えられたのか自生してるのかわからない草木が鬱蒼としてきた。木にプレートがかけられ、「イヌビワ」と書かれていた。どの辺がイヌなのかわからなかった。となりの木には「ヤマモモ」と書かれていた。モモだとかビワだとか、実のなる木ばかりだった。ヤマモモのプレートは人の頭の高さくらいの位置にかかっており、根っこからプレートまでは木が二股になっていて足みたいで、変になまめかしかった。
トタンでできたほったて小屋があり、赤く錆びていた。道路側はすだれで覆われていて、「すいか」と書かれた看板が横倒しになっていた。野菜の直売所のようだ。その先にラブホテルが建っていた。黄色い建物の上部は塔のように尖り、ひもに渡した万国旗がぴらぴらはためいていた。以前は階段と足場があったのか、建物の二階に急にドアだけがあった。宇都宮はミンソを見ると、ミンソもこちらを見た。二人はホテルに入った。
やはりバックヤードにいるのか、受付に人はおらず、ロビーにあるパネルで部屋を選んだ。人の気配はないのに、点灯しているパネルは一つだけだった。白い簡素な部屋だった。見たことのある部屋だったがどこでも見たのか思い出せなかった。パネルのボタンを押し、カギを取って部屋へと向かった。

部屋に入るとベッドとソファだけが置かれていた。他には何もなかった。宇都宮はミンソに抱きつき、キスをした。目をつむり、感触を味わった。ベロ、よだれ、と思った。それ以外は特になかった。目を開けるのもおかしいと思ったので、そのまましばらくベロとよだれの感触を味わい続けた。
いいかげんよだれでべとべとになってきたので、宇都宮はうす目を開けてベッドの位置を確認し、ミンソを押し倒した。口を離し、ミンソの服を脱がせにかかった。風呂に入っていなかったが、宇都宮は気にしなかった。ミンソはわからないが、宇都宮はもう、それどころではないのだった。シャツのボタンを外すのがまどろっこしかった。どうにかシャツとブラジャーを剥ぎ取ると、ミンソの胸部に宇都宮が描いた落書きのおっぱいが現れた。宇都宮はぽかんとした。ミンソの顔を見ると恥ずかしそうに胸を隠したので、萌えた。手をどけ、おっぱいに触れると、ミンソは目を閉じ、吐息を漏らした。落書きのようなおっぱいでもおっぱいはおっぱいだろうと自分に言い聞かせ、乳首らしきピンク色の点を舐めた。何の感触もなかった。ミンソのズボンとパンツを下ろすと、女性器の記号が現れた。宇都宮も自分のズボンとパンツを脱いだ。股間にモザイクがかかっていた。酔いが覚めていないのか。よくわからないなりに宇都宮のモザイクをミンソの記号に近づけた。つながった、ような気がした。ミンソが「ア-」と言った。棒読みだった。気持ちがいいのかどうか全然わからない。それでも宇都宮はミンソの記号めがけて突いた。都合のいい未来がようやく訪れたんじゃないか。今はモザイクで記号を突くことが宇都宮の全てだった。

急にドアがバンと開いた。ハムスターだった。宇都宮の倍くらい大きかった。ハムスターは身をねじるようにして部屋の中に入ってきた。そして「エサはっ!?」と宇都宮に怒鳴った。二日連続で忘れていた。「ごめん、明日には帰るから、もうちょっと待っ……」言い終わらないうちにハムスターは宇都宮の頭をかじり、首から上を食いちぎった。血が吹き出した。ハムスターは宇都宮の頭を食い、身体はその辺に捨て、ミンソと交尾した。ミンソが棒読みであえいだ。「ハムスターの発情期は、主に春と初夏と言われているよ」とミンソの記号を突きながらハムスターが言った。もう9月だった。ベッドも寝ているミンソも宇都宮の返り血を浴びてどろどろだったが、返り血はバラの花びらへとモーフィングした。ミンソはバラにまみれ、「アハーン」と棒読みでハムスターを誘惑した。ハムスターのでかいキンタマがさらに膨れ上がった。ハムスターに突かれながらミンソは棒読みであえいだ。ハムスターは射精したのか、キンタマも身体もみるみる縮み、ベッドの下へと潜り込んで行った。残されたミンソはバラに埋もれながら「アー」とまだ機械的にあえいでいた。宇都宮はその様子をただただ見ていた。首がないのに、どうやって見ているのか不思議だった。

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