抑揚を持たない宇都宮誠弥と、彼のモラトリアムな年(9)

マサミ姉ちゃんと会えることになり、宇都宮のテンションは上がっていた。すぐに新幹線の改札を出た。15000円の切符がパスタを食べただけで消えた。
それから宇都宮はシャツを買いに行った。ミートソースのついたシャツでマサミ姉ちゃんに会いたくなかったからだ。駅ビルに入り、最初に目についたオシャレそうな紳士服の店で白いシャツを手に取った。値札を見ると7800円だった。宇都宮は普段、スーツの白シャツに絶対にそんなお金をかけなかったが、テンションが上がっていたのと他に店を探すのがめんどうだったのとで、そのままレジに持って行った。「すぐに着ます」と言い、包装をといてもらって試着室で着替えた。ネクタイを締めるのは相変わらず下手くそだったので、真っ白のシャツが台無しだった。
新大阪から再び御堂筋線に乗り、本町を通り過ぎ、天王寺まで出た。宇都宮が「あべのハルカスに行きたい」と言ったので、駅前でマサミ姉ちゃんと待ち合わせることになったのだ。ミートソースのついたシャツは駅のゴミ箱に捨てた。着替えや書類などを入れた肩かけカバンは重かったが、仕事ができる男に見えるかもしれないと思い、そのまま持っていくことにした。

あべのハルカスは現在、日本で三番目に高い建物だ。一番はスカイツリーで、二番は東京タワーだ。宇都宮は足場の安定した高い所が好きだった。展望台に登りたかったのだ。安定していないと苦手で、脚立の一番上にも立てなかった。
マサミ姉ちゃんはタイ古式マッサージのお店でセラピストをしており、宇都宮がパスタを食べていた時間にちょうど勤務が終わったようだった。脇内にくっついてキャバクラに行かなくて本当によかった。スーツ姿で会うのもなんだか誇らしかったが、よく考えたら去年の結婚式にも同じスーツで出席していた。
天王寺の駅前は帰宅のラッシュ時ということもあり、小倉よりはるかに人が多かった。改札に入る人も出てくる人も、みんな足早だった。宇都宮のように誰かを待っている人もちらほらいたが、合流すると同じく足早に去った。宇都宮は通り過ぎていく人々をぼんやり眺めた。雑踏から断片的に聞こえてくる関西弁が新鮮だった。特に若い女性の方言は耳に心地よかった。スマホを取り出し、SNSで「出張で大阪」と不特定多数の人に向けて報告した。太田カツキから「いいね!」と親指を立てたマークが速攻返ってきた。

スマホを見ながらしばらく待っていると、駅からマサミ姉ちゃんが現れた。柄のついたシャツに、ダボっとして楽そうなパンツを履いていた。似たような服でも太田カツキとは印象が全然ちがう。結婚式の時は長い黒髪だったが、茶髪にして肩より短くしていた。コンタクトではなく、レンズの分厚いメガネをかけていた。
「セイヤ、スーツ着とるが」姉ちゃんは相変わらず岡山弁だった。宇都宮誠弥はマサヤなのだが、姉ちゃんはセイヤと呼ぶ。子どもの頃、マサヤとマサミで途中までどっちが呼ばれているのかまぎらわしかったので、マサミ姉ちゃんが来ている間だけ宇都宮はセイヤと呼ばれており、姉ちゃんの中ではそれが定着した。
「仕事だから、一応」
「どこで仕事?」
「ここ来る途中の本町って所」
「へえ」
聞いたくせに興味なさそうにマサミ姉ちゃんは答えた。宇都宮はマサミ姉ちゃんから目をそらした。マサミ姉ちゃんは黒目が大きく、メガネ越しでも吸い込まれそうになった。
「普段、コンタクトじゃないの?」
「なんとなく、気分じゃわ」

ぐいと湾曲した歩道橋を横目に、近鉄百貨店に入り、売り場で展望台へ登るチケットを買った。空港のチェックインカウンターのような佇まいだと思った。マサミ姉ちゃんが出してくれると言ったが、映画が観れるくらいの値段だったので、自分で払った。それから16階に上がり、展望台の入場口に出た。ここから60階まで一気に上がるのだ。エレベーターの前に「16—60」大きくゴシック体で表記されていた。ポールパーテーションがぐねぐねと複雑な動線を作っていたが、平日の夜ということもあり、そんなに人は並んでいなかった。「土日はぎょうさん並んでるで」とマサミ姉ちゃんが言った。
展望台への直通のエレベーター内は暗く、登っていく途中、きらきらした光の演出が行われた。乗り合わせたカップルの女の方が「わあ」と声をもらした。雨のような光の筋が流れ、現在の高さがデジタル表記でくるくる変わっていった。表記と実際の高さがリンクしているのかはわからないが、一分足らずで60階に着いた。カップルの男の方が「はやっ」と言った。
展望台からは360度、大阪の街が見渡せた。日は沈み、ミニチュアみたいな街は煌々とライトアップされていた。大きい道路は街灯でオレンジ色に照らされ、分岐し、またつながった。血管のようだった。
宇都宮は高い所に登ると気持ちが大きくなった。人が豆つぶみたいに見え、「虫けらどもめ」とつぶやいた。声に出すと危ない人なので、心の中でつぶやいた。
通天閣、道頓堀、天王寺公園、動物園、六甲山など、目につくものをマサミ姉ちゃんが指差して教えてくれた。通天閣もライトアップされ、「HITACHI」の文字が白く光っていた。
何周でも回って見ていたかったが、マサミ姉ちゃんが飽きるだろうと思って一周でやめた。

58階に降りた。吹き抜けになっており、デッキから濃紺色の空が見えた。マサミ姉ちゃんは「何か飲もう」と言って、喫茶スペースの方に行った。宇都宮は「先にトイレ行って来る」と言って別の方向に歩いた。トイレもガラス張りになっているらしいのだ。
昼間ならもっと家族連れや観光客が多いのだろうが、カップルが目立った。デッキに座り、どの組も密着するほどの距離で夜景を見下ろしていた。なんなら密着していた。
トイレに入ると小便器が並んでおり、その背後がガラス張りになっていた。「ちょっと待ってて」と言いながら、エレベーターで一緒になったカップルの男の方が入って来た。はた目から見れば、自分とマサミ姉ちゃんもカップルに見えるだろうか。まあ、見えた所で従姉妹同士だからどうしようもないのだけれど。宇都宮のテンションは上がりっぱなしで、頭の中の独り言も調子に乗っていた。
あれ、従姉妹同士って結婚できるんだっけ? できたとして、俺はマサミ姉ちゃんとそういう関係になりたいのか? マサミ姉ちゃんと会えることになった時のワクワクは、デートのワクワクか? 何年もデートしてないからわからない。自分はマサミ姉ちゃんに恋愛感情や性欲を抱いているのだろうか。ちがうんじゃないか。でも似た何かは持ってるんじゃないか。タブーをおかすスリルか。いやそうじゃないだろう。 ーーあれこれ考えながら、宇都宮は大阪の夜景を背負って小便をした。解放感もあったが、変な緊張感もあった。小便はあまり出なかった。

トイレから戻ると、マサミ姉ちゃんはスマホをいじりながらコーヒーを飲んでいた。宇都宮はアイスコーヒーを買い、マサミ姉ちゃんと対面して座った。マサミ姉ちゃんが顔を上げた。
「どうじゃった、トイレ」
「ガラス張りやった」
「気持ちよかった?」
「あんま出らんやった」
「あはは」
マサミ姉ちゃんがコーヒーを口に近づけた。メガネが湯気で一瞬曇った。
「隆広、結婚したんじゃろ?」
「うん、まだ籍入れとらんけど」
「奥さん、どんな人?」
「なんかおばちゃんみたいな人」
「なんそれ」
「おばちゃんみたいなんよ、なんか」
「セイヤは嫌いなん、奥さん」
「いや、おばちゃんみたいで、いいんよ」
「おばちゃんは褒め言葉じゃねえが」
「でもおばちゃんみたいなんよ」
「すげえなあ、隆広がなあ」
そう言いながらマサミ姉ちゃんは外を眺めた。小さく飛行機が見え、暗い空に点滅する光が少しずつ動いた。
「セイヤは、結婚」
「せんよ」
「なんで?」
「相手がおらん」
「おらんの、彼女?」
「おらん」
「作らんの?」
「できん」
「へえ」興味があるのかないのか、マサミ姉ちゃんはよく「へえ」で話題を切った。宇都宮も太田カツキなんかにはよく「へえ」と言うが、少なからずマサミ姉ちゃんの影響を受けていた。
「……姉ちゃんは?」
「何?」
「彼氏」
「あたしは……、さすがにまだええわ」
「……そうなん?」
「まあ、そのうち、気が向いたら」
「……」へえで返すのはなんだか気が引け、ちがう言葉で返そうと考えているうちに黙ってしまった。こういう時にうまく話題を変えられればいいのだが、宇都宮はいつも言葉が出ないのだった。

「……実家には帰らんの?」マサミ姉ちゃんが言った。
「帰るよ、たまに」
「そうじゃなくて、同居せんの?」
「……同居?」宇都宮は両親との同居など考えたこともなかった。まだまだ先の話だと思っていた。そしてマサミ姉ちゃんの口からそんな話題が出るなんて思ってもみなかった。
「おじちゃん、もう定年じゃろ?」
「……そうやけど」
「あんた、隆広に先越されるで」
「それはもう、目に見えてそうやわ」宇都宮の上がっていたテンションは急激に下がった。目の前にいるのは親戚の姉ちゃんで、それ以上でも以下でもなかった。
「おじちゃんは知らんけど、おばちゃんは隆広よりセイヤに帰ってきてほしいはずで」
「え、なんで?」母のそんなそぶりは見たことない。
「あんた、鈍いけな」
「……長男やけ?」
「そんなんどうでもええわ。おばちゃん的には、同居するなら隆広やなくてあんたじゃが」
「なんで?」
「察し、それは。おばちゃん見てたらわかるが」
「……わからん」宇都宮にはわからなかった。マサミ姉ちゃんにはわかるようだった。
「……あたしは同居する気満々じゃったけどな、軽井沢」
「……あぁ」なんで離婚したの、と聞くなら今だと思ったが、気が引けてやめた。
「実家ももうないしな」
「え、岡山の家、引越したん?」
「あるよ。あるけど、あそこはもう実家ではないわ」
「……実家やろ」
「実家は実家じゃけど。帰ってないわ、ずっと」
「……そう」
「じゃけセイヤ、よう考えり。まあ、あたしに言われたくないか。あはは」マサミ姉ちゃんは笑った。メガネの奥の黒目は笑っていなかった。宇都宮はいつの間にか全身に変な力が入っており、首の骨をごきごき鳴らした。
「……揉んじゃろか、首」
「え、いいよ」
「なんで、揉んじゃるよ。本職やでこっちは」
マサミ姉ちゃんは立って宇都宮の背後に回り、宇都宮の首を揉んだ。
「いてててて」
「固いな、あんた。ちょっと、毎日ストレッチし」
「どんな?」
「知らんが、なんかストレッチ」
「適当やな」
宇都宮は、マサミ姉ちゃんがどんな顔をして自分の首を揉んでいるのか見たかったが、後ろに立っているので見えなかった。マサミ姉ちゃんはしばらく宇都宮の首を揉んだあと、肩から肩甲骨にかけても揉んだ。
「なんじゃこれ、セイヤ、肩甲骨ねえが」
「肩甲骨はあるやろ」
「ねえが。指入らんもん」
「いてててて」
マサミ姉ちゃんのマッサージは、気持ち良さよりも痛みの方が強かった。

その後すぐ展望台を降りた。宇都宮はパスタを食ったことは黙って、マサミ姉ちゃんと一緒にご飯を食べに行くつもりだったが、マサミ姉ちゃんは友達からご飯に誘われ、そっちに合流すると言った。一緒に来るかと誘われたが断った。マサミ姉ちゃんの友達に対してなんだかうまく振る舞える気がせず、断ったのだった。「じゃあ、また」と言ってマサミ姉ちゃんと別れた。
マサミ姉ちゃんの家に泊めてもらうつもりだったので、宿泊先のあてがなくなった。もう21時をまわっていた。ホテルを探さなければならないが、今からスマホを操作して一軒一軒あたるのがめんどうで、とりあえず本町の、夕方チェックアウトしたビジネスホテルに向かった。途中のコンビニでプリンを買った。カバンが肩に食い込んで痛かった。
プリンを食べながらホテルに入ると、夕方と同じフロントの男が「え?」という顔をした。
「部屋、あいてますか?」
「……ご宿泊、ですか?」
「はい。あいてますか、部屋」
「……ございます」
プリンを食べながらやりとりする宇都宮が異様だったのか、フロントの男はそれ以上何も聞かず、宿泊の手続きをした。カードキーを渡すタイミングで、「これ、忘れ物です」と言い、フロントの中にある個室からビニール傘を持ってきた。
カードキーをポケットに入れ、ビニール傘を腕にかけ、「これ、捨てといてください」とプリンの容器をフロントの男に渡して、宇都宮はエレベーターに乗った。あべのハルカスのエレベーターより上昇するスピードがゆるやかだった。二階、三階……、と点灯する階数表示を見つめながら、脇内に電話してキャバクラに行ってみようかなとも思ったが、エレベーターで降りた時にペイチャンネルの自動販売機が目に入り、千円札をつっこんだ。財布の中からお札がなくなった。

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