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ため息

「はぁ……」
 Aはため息をついた。昨日もついた。一昨日も。その前も。たぶん明日もつく。最近、Aのため息は多い。
 これと言って何かがあったわけではない。どうにも気分が優れないのだった。現状に満足しているのかと言われればそんなこともない。じゃあ何が不満なのかと聞かれても困る。つまり、自分で自分の状態を言い表せず、もやもやしているのだった。
 ため息は、質感のある半透明の気体となって口から出、空気に溶けるような気がした。
「彼氏?」
 一緒に登校していたBが言った。Bは傘を地面に打ちつけながら歩いていた。
「いない」
「あれ、今いない?」
「今も何も、ずっといない」
「ずーっと?」Bは傘を地面と平行に持ち、長さを表現した。
「いない。いたことない」
「知ってた。そういうオーラが出てる」Bは傘を打ち下ろした。
 梅雨入り宣言からこっち、はっきりしない天気が続いていた。雨はまだ降っていない。降水確率は毎日50%前後で、みんな傘や雨合羽を携行していた。
「その、傘カツカツするのやめて。なんかイラっとする」
 Bの傘の先端は傷だらけでささくれ立っていた。
「彼氏いないからよ」
「関係ないでしょ。あんたは?」
「私のかっこいい彼氏?」
「そう、それ」
「いない」
「あ、今いない」
「ずっといない。いたことない」
「かっこ悪い彼氏は?」
「いらない」
「かっこいい彼氏は?」
「ほしい」
「知ってた」
 AとBは好んで中身がからっぽの会話をした。情報交換より、やりとりそのものが目的だった。高校の三年間という限られた時間を、不毛な会話で無為に過ごし、その日その日をやり過ごすのが彼女達の日常だった。
 道路脇のレンタルサイクルが、1台もレンタルされずに停まっていた。誰が利用するのだろう。観光客か。Aも利用したことはない。そもそもレンタルする仕組みがよくわからない。わかろうとも思わない。世の中わからないことだらけ……またため息が出た。
「多くない?」
「そんなに?」
「全呼吸がため息」
「そんなに!?」
「そんなだから彼氏いないし、傘忘れるのよ」
 Aは傘を持っていなかった。「降らないよ、どうせ」と空を見上げた。雨の仕組みは授業で教わった。熱せられた地上の水分が水蒸気になり、空に溜まって重くなり雨が降る。質量保存の法則とか、なんかそういうの。
「体調悪い? あ、生理?」
「生理でため息出ないでしょう」
「出る人もいるでしょう」
「出るのは主に血でしょう」
「ちょっと、はしたないからやめなさい」
「あんたが言い出したんでしょう」
「病気?」
「違うと思う」
「ご飯は?」
「食べた」
「元気じゃん」
「まあそうなんだけど……」
「じゃあ何なんだよ!」Bの怒りの沸点は低い。また沸騰するタイミングもよくわからない。
「なんか……もやもやしてんの」
「もやもや?」
「だから、わかんない」正体がわかれば、こんなにもやもやしていないのだった。おばけだって正体がわからないからこわいのだ。

 後方から、自転車に乗ったCが二人に追いついた。
「ねえ、見た?」Cの話には主語がない。
「何を?」
「完封だったよ昨日」野球だった。
「興味ない。はぁ……」
「金欠?」
「……」真っ先に金欠と結びつけるなんて、Cの目に私はどう映っているのだろう。
「なんかもやもやしてんの」BがCに言った。
「どうぞ」Cがポケットから体温計を取り出した。
「何で持ち歩いてんの?」
「持ち歩かない?」
「持ち歩かないし計らない」
「じゃあ」と、CはAに自転車を預け、自分の脇に体温計をはさんだ。
「測るの!?」
「せっかくだから」
「せっかく?」
「持ち歩くよね?」CはBに聞いた。
「体温計は持ち歩かないけど」
「じゃあ何持ち歩いてんの?」
「これ」と、Bは鞄から不細工な人形を取り出した。目がギョロッとし、不揃いな歯がむき出しだった。
「何それ……」Cは若干引いていた。
「いいことあるのよ」
「かわいくないのに?」
「それは関係ないでしょ」
 三人の横を大型車が通り過ぎ、会話を遮った。道路沿いの桜はとっくに見頃を過ぎ、道ゆく人は往々にして俯き加減だった。
「溜まっちゃって、どんよりしてんじゃない?」Cが雲を指して言った。
「何が?」
「ほら」
 促されるがままに周囲を見ると、登校中の学生も、子供の手をひいた母親も、車中のサラリーマンも、みんなため息をついていた。彼らの口から出た半透明の気体は、空に立ち昇り、雲と同化した。
「ほんと……」
「最終的にどうなるんだろう」同じく雲を見てBが言った。
「溜まったら出るでしょう」Cが当たり前のように言った。
「出るって、何が?」
「さあ」
 Aは、自分のため息が他人のそれと混ざり、雨になって降る様を想像した。もやもやは地上に降りてどこへ行くのだろう。地面に浸透するのか。環境は破壊しないだろうか。温暖化には作用しそうだけれど……。
 思索に耽っていると、ピピッと機械音が鳴った。「35度4分」とCが体温計を提示した。
「意外と低い」
「平熱平熱」
「へえ……あ五円玉」Bが五円玉を拾った。ポケットにしまい、「ね?」と例の人形を提示した。ギャハッと、品のない笑い声が聞こえた気がした。
 質量保存の法則は、もやもやにも適用されるのだろうか。人体への直接の影響は。そもそも何だよもやもやって……身体の中で不純物が渦巻いているような気がし、Aの口から「ぐぇっ」とゲップが漏れ、咄嗟に手で口元を覆った。
「はしたない」
「大丈夫?」
 もやもやして気持ちが悪い。これじゃ悪循環だ。私はこのループから抜け出したい。でもその方法がわからない……。
「わーー!!」Aはおもむろに叫ぶと、自転車に跨がり、全力でペダルを漕いだ。
 あっと言う間にAの姿は遠ざかり、取り残されたBとCは、ただただ茫然とするしかなかった。
「え~……」
 BとCは手を繋いだ。Aには内緒だが、二人は付き合っていた。
 ため息は立ち昇り続けた。雲は膨らみ、ぼこぼこと、煮立ったカレーのような音を立てていた。

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