母が抱える『気づかなかった』という罰
8歳の娘の歯科矯正について話しているとき、母がふいにこう言った。
「この前、弟くんが遊びに来たのよ。ねえ、よく見たら、下の歯並びがね…少し良くなかったの。私、あの頃、忙しくて気がつけなかったのよね」
その声は、どこか遠くを見つめるような響きだった。
弟はもうアラフォーだ。部下を持ち、責任ある立場で働いている。誰にも頼らず、一人で立つ力を持っている。それに、歯並びなんてほとんど気にならない程度のものだ。私も母に言われるまで気づかなかったくらいだ。
けれど、母はそこに引っかかる。自分が「気づけなかった」という事実に、どうしても囚われてしまう。
「別に本人、気にしてないし、もう大人だよ」と私は軽く返した。だけど、その夜、母の言葉が胸の奥でずしりと重たくなった。
母が悲しそうに呟いたのは、弟の歯並びそのものの話ではない。あの頃、仕事と家事に追われながら、「もっと気づけたはず」と自分を責めているのだ。
朝は急いで保育園へ送る。そして夕方、買い物袋を下げて帰る。家に着いたら、食事を作り、洗濯をし、片づけをする。その夜もきっと、母は台所で片づけをしながら、私と弟の寝顔をそっと横目で見ていたのだろう。
疲れ果てた体で「ああ、ちゃんと見てあげなきゃ」と思いながら、目を閉じてしまうような夜がたくさんあったのだと思う。
そんな母を、私は責めることなんてできない。それどころか、痛々しいほどいじらしく思う。
弟は、あの頃の母の忙しさを超えて、今では自分の人生をしっかりと歩いている。それこそ、母が必死で注いだすべての証明じゃないか。
だけど、母は孫を育てる私を見ながら、どうしても過去の自分と向き合ってしまうのだろう。取り戻せないものをそっと抱きしめるようにして。
私は思う。もし、私の「ありがとう」がその抱きしめたものを少しでも軽くできるのなら、もっと積極的に伝えていこう、と。
母が拾い上げた「弟の歯並び」は、きっと過去を振り返るきっかけに過ぎない。それでも、そんな小さなきっかけが母の心に何かを刻むのだとしたら、その心をそっと温めるのは、私たち「子ども」の言葉しかないのだろう。