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「幸せのかけら」ジョナス・メカス

「幸せのかけら」
 ~ジョナス・メカス『歩みつつ垣間見た美しい時の数々(As I was moving ahead occasionally I saw brief glimpses of beauty)』から~ 

 「永遠なんてどうでもいい、そんなことは忘れて楽しみたまえ、そう、わたしたちはそのひととき、一瞬、そうした宵を楽しくすごした。それに、そうした宵はたくさんあった、たくさんあったではないか友よ、私は決して忘れない…」(メカス) 

 いつのまにかまどろみ、ようやく意識が回復すると、まばゆい光が射しこんでくる。メカスの映像は意識と無意識の狭間を揺れ動いているから、僕は映画を見ているときは、いつだって寝たり起きたりを繰り返す。
時は直線的な流れの束縛から自由になって、円環の中に包まれる。彼の映像に触れているあいだ、幸せの感情がみずからの内から湧き起こるのを抑えることはできない。ひとつの焦点に結ばれることを拒絶した不安定に振幅する映像は、わたしたちの生のあり方にそのままつながっているーー。 

 メカスの「歩みつつ垣間見た美しい時の数々」は、5時間弱にもおよぶ長い映像作品だ。そこに映し出されるのは何の変哲もない日々の営みの、無数の断片。ストーリーもドラマティックな展開もない。しかし、飽きはまったくやって来ないのだ。
1949年、ナチスの迫害を逃れて故郷リトアニアから米国に亡命した詩人メカスは、みずからの拠点をニューヨークに置いた。この作品では、主に60~70年代にそのニューヨークで撮影された映像の断片が直線的な時の流れには従わず、無造作に並べられている。
芸術家の仲間たちとのホームパーティーではみんなが杯を傾けながら、笑顔で語らう。
部屋に射し込むまばゆい太陽の光。冬に、しんしんと降る雪。窓越しに映る木々は、台風のせいだろうか激しく身を揺らす。
夏には人々がセントラルパークに憩い、メカスも家族たちとピクニックをしている。最愛の妻ホリスの出産。はじめて長女のウーナが歩き始めた瞬間。背後ではピアノの演奏が流れ、それが予告なく雨音や柱時計が時を刻む音に変わる。突然すべてがプツリと断ち切れたかと思うと、メカスの言葉が吹き込まれる。 

「わたしたちの暮らしは、みんなじつによく似ている。ブレイクの言うとおり、ひと雫の水にすぎぬ。わたしたちはみなそのなかにあり、きみとわたしの間に大きなちがい、本質的なちがいなどありはしない」。 

不思議なことにわたしたちはこの作品で、映像のいたるところに自分自身を発見する。「あなた」という表現を何度も使い、見るもののかたわらで語るメカス。メカスに固有の日常が映し出すものは、一瞬だけ浮かんではかすかな痕跡を残して消えていく。 

日常を撮るのは簡単だ。特に撮影の手段が格段に進歩した現代では、誰もが日常を映像に収めることが可能になった。
でも、と僕は思う。世の父親がかわいい子どもを撮るような映像とメカスがカメラに収める日常の断片のあいだには、決して乗り越えることのできない壁があるではないか。
この差は一体何なのだろう。技巧や緻密さといった違いだけでは説明できるものではない。 

「静かな場所にひきこもり、ひとりですべてを解決すべきなのだろうか。いいやそうではないという声がした。(…)安易な方法をとれば救われるのはきみの魂だけだが、困難な方法ならきみの他にも数人の魂を救うことができる」。 

メカスが語るこの言葉には、他者との生の共有を内在化させた彼の本質がよく表現されている。彼が撮る今ここにある幸せの断片は、自らの中で閉じられてはいない。それは個の欲望や充足感といった狭量さからは無縁の地点にわたしたちを誘う。 

「断片は、ブレイクの言うとおり、時にすべてをふくむことがある」。 

 メカスは永遠というファンタジーを求めない。映像が永遠を内包すると考える安易さに走ることはない。とても繊細な、かそけし美の断片は、浮かび上がると同時に消えていくもの。その断片の深淵にひろがるのは、おそらく無だ。
無に包まれる単独者のメカスはどこまでも孤独で、つつましい。だからこそ、彼が撮る一瞬の生命を与えられた幸せのかけらは、美しいのだと思う。

(参照)
 「歩みつつ垣間見た美しい時の数々」のテキストを翻訳した冊子(木下哲夫訳)

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