一杯のコーヒータイム #9
突然"消えた"としか言えない感覚。
人生終了ボタンを押して急にいなくなる人が今までより増えた気がする。
私も、終了ボタンを押したい気持ちがないわけではない。
そんな気持ちがあるのは当たり前だと思っている。
無理に捨てようとしたり、隠したりせず、自分の一部にしたいから今は話したり書いたりしている。
そんな気持ちとの共存となると思い出すことがある。
誰かを繋ぎ止めようとしたり、精神バランスを保つためにボタンを押そうとする姿を見せてくる人が学生時代にいた。
ま、それもそれだ。
今頃どうしてるかは知らないが、その人がその時できた生き方だったんだと思う。
当時はそれを見て"怖さ"や"バカらしさ"もあったが、どこか羨ましさもあった。
ある意味、とても自分の気持ちに正直だから。
真似はできません。
腕に痛みが続くのは嫌なので。
文字で表現するようになって、私はようやく心のバランスをとることが楽になった。
書くことで頭を整理している。
時間はかかるけど、時間を余らせてたところだから丁度いい。
そんな中、最近、心に気になる言葉があった。
『生きてさえいれば』
『生きててくれれば』
病気や事故でもなく、体は元気なのにコロナ禍で日常がうまくいかない今の私がそれを近しい人から言われたら、
『生きてるだけじゃ…』
と、ちょっと苦しくなるかも。
生きてるだけ、息をしてるだけなら、生きてる意味があるのかなって。
相手に合わせた言葉なんて、同じ苦しみを味わった人か、あるいは現在進行形の人でないと咄嗟には出てこないと思う。
でも、
『この人なら何か言ってくれるかも』
『この人ならわかってくれるかも』
と無意識に求めちゃうから、無駄に傷付いたりしてきた。
藁をもすがる思いだから。
普通、他人にそんなに関心はないし、まして日々何をしてるかなんて細かく知らないから、どう言えばいいかなんてわからない。
なのに、自分もそうだけど、人って何か起きると、
あなたのためを思って!
あなたが心配だから!
そんなことしないで!
と言動が前のめりになる。
急な強すぎる優しさは、鈍器で殴ったのと同じくらい相手に致命傷を負わせる可能性もあるのに。
たとえ自分が後悔しないためのことしかできなくても、その大半が相手にとってありがた迷惑になることもあると追い詰める場合もあると自分から気付くのって難しいよね。
悩みを相談できない人も多くいる。
私もその一人だった。
立場、内容、信用の問題。
頼り続けられないのに、弱くなりたくない。
自分にそんな"イメージ"はないんだ。
親のため。まわりのため。
頑張って世の中に居ないと。
どうせ言っても伝わらない。
悩みに"答え"はない。
この"しんどい"を楽にしたい。
誰にもできないから、自分でやるしかない。
だから、ボタン、押さなきゃ。
自分で自分を救う術が失くなってしまったときの私はこんな感じだったなぁ。
何をどうしてきて、今こうして日記を書けてるかなんて一つ一つ覚えちゃいない。
苦しいことの方が強くて、良いことがいつまでたっても薄れる。
貧乏で畳を食べようとしていた時に比べたら、って今でも思い出す。
これも立派な、生きる理由だけどね(笑)
『言ってくれれば良かったのにー!』
『話くらい聞くよー!』
この二つを"よく"言う人は自分の話をしたがる人が多いのであまり信用してない。
なぜ自分に話してもらえる自信があるのか。
会うなら逆に話を聞くつもりでお茶に挑んでる。
そうは言っても、私も、声をかけてもらえるだけ有り難いと思うべきかもしれませんが。
この数年、何か本当に聞いてもらいたいことがあったときは、自分から親友の時間を泥棒させてもらってる。ただ話を聞いてもらうだけの静かな時間。
頼れそうなことから頼るのも大事。
いい加減になることも大事。
諦めないことも大事。
出来ないことも大事。
相変わらずまとまりない文章で話が散らかるなぁ。
ただ、今日は勝った。
一杯じゃなく一本だけど。
まさか、吸う力が弱くなってないよなと気になったけど(笑)
今日もコーヒー、ごちそうさまでした。
対戦相手
ヤクルト さん
ヤクルト カフェ・オ・レ
読んでくださった通りすがりの皆様も、何か辛いことがあったら、コーヒーを一杯、ゆっくり飲んで、心がほわほわ柔らかくなればいいなと願ってます。