逃避行(仮).1

エレベーターに乗り込んだのは、犬飼と俺の二人だけ。ついに、そのチャンスがやって来たのだ。俺は、スーツの内ポケットを、上から摩ってみる。確かに、そこには硬い感覚があった。お笑い種だ。今日一日、ずっと俺は、胸のあたりを膨らましていたのに、誰一人それを指摘するやつはいなかった。後で、「確かに、彼は、スーツの中に何かを隠し持っていました」と、何人もの奴らが証言するだろう。隠し持っていた!確かに俺は隠し持っていたのだ。しかし、それは、誰にも見つからぬように、コソコソと、周到になどというのではなかった。これは、証言者どもも認めざるを得ない。俺はこんなにもあからさまに、内ポケットに隠していたのだ。

エミリが、これをどうやって手に入れたのかなど、どうでもいい。大体、俺があいつについて知っているのは、エミリという名前と(これだって、音の響きしか知らない。どんな漢字を書くのか。或いは、カタカタなのか、平仮名の名前なのかも知らない)と、百五十センチそこそこの身長と、後は目の大きなトビキリの美少女だってくらいだ。年齢は、もしかしたらまだ十代かも知れない。とにかく、彼女はこいつを手に入れて来た。俺は、最初もちろん冗談だと思っていた。だがら、簡単に約束してしまった。彼女がこいつを手に入れたら、俺が酔いに任せて言った妄想を、彼女が「それって素敵ね」と言った妄想を実現させて、それから二人でどっかに消えちまおうって約束だ。会ったばっかりで、お互いのことを殆ど知らない二人で旅行しようってわけだ。これってちょっと素敵だろう。『素敵』なんて言葉を、俺は普段使いはしないんだ。これは、エミリの影響だろう。まったく、エミリにはそういう力があるんだ。いつの間にか、彼女のペースって訳だ。

エレベーターが開いた。その中はなんと空っぽだった。犬飼は、俺の方を見ることもなく、奥まで進んでいく。俺は後から入り口のボタンのところに立った。

「一階ですよね?」これを、俺が犬飼に向ける最後の言葉にしよう!俺は、もう何一つ、この男と話をしないぞ。こいつが俺に対して何を言って来てもだ!

犬飼が頷きぐらいしたのかは知らない。俺は、あいつの方を見ていなかった。じっと、頭の上の文字盤のところを睨んでいた。十、九、八、七、どんどん下の階へと落ちていく。二階まで行ったらやってしまおう!そして、俺は一階で、何食わぬ顔をして出て行こう。もし、途中でエレベーターが止まって、誰か他の奴が乗り込んで来たらどうしよう。そうしたら、計画は失敗だろうか。いや、誰か乗り込んで来たら、その時点でもうやってしまおう。大体、俺はもう犬飼と話さないことに決めたんだし、今日のところは一旦取りやめにして、明日またこのクソッタレな会社にやって来ても、どうしようもないじゃあないか。俺は、話さないことに決めたんだから!

「来月の報告会の資料な、お前にやってもらうことに決めたから」なんだってこのハゲ親父は、俺のことを『お前』なんて呼ぶんだろう。こいつは、俺をボコボコに殴りつけて、「参った」なんて言わせた訳じゃないし、今日から『お前』と呼ぶからな、と確認して、俺から了承をとった訳でもない。いや、確認してくれなくて良かった。もし確認されたら、俺はニコニコ、くねくねして、「はい、どうぞ」なんて答えていたかもしれない。俺は、そういう自分を殺してやりたい。馬鹿馬鹿しい社会に押しつぶされることよりも、媚び諂って上手くさやっていくことを選んで来た俺自身をぶち殺してやりたい。

「お前に出来るかは分からんがな。資料自体は難しいものじゃないが、クロス分析を使わなきゃならん。お前、やったことあるか」

ハゲ親父達は、会社の研修で聞いただけの言葉を嬉しそうに使う。クロス分析!ロジカルシンキング!三段論法!まったく馬鹿馬鹿しい!こいつらの『論理』とはなんだ!単なる尻尾振りじゃないか。上司達が一番喜ぶ尻尾のリズムを、こいつらは論理と呼ぶ。俺も同じように、上手に尻尾を振って来た。その結果、犬飼がこの前の飲み会で言っていたとおり、「一番可愛がっている部下」になれたという訳だ。俺は、こいつらが侮辱的に汚してしまった『論理』とやらに忠実に従ったおかげで、可愛らしい子犬になれたという訳だ。しかし、俺はもうウンザリだ。犬になんてなりたくなかった。こいつらは、忠犬の暮らしを二十年も続ければ、いつの間にか狼になれるという。俺の一声が、狼未満の犬どもを集まらせ、腹を見せて忠誠を示させたり、尻尾を振らせたり、それはそれは気分の良い、群の頭になれるのだという。しかし、俺は狼にだってなりたくないんだ。子犬から狼になったって、服従によく訓練された被抑圧者か、或いは踏ん反り返った抑圧者の、何れにしても嫌な臭いをプンプンさせる獣じゃあないか?俺は、人間になりたい!どうしてこれが、俺は元々人間だったはずなのに、こんなに難しいことになってしまっているのか。俺には理解出来ない。

「お前には、まだまだ経験が足りない。まだ、四年目だからな。俺たちの時代には・・・」

二階だ。俺は振り向きざまに引き金を引いた。扱い方は至極簡単だった。エミリの五分にも満たないレクチャーで、誰だって使えるようになるはずだ。彼女に言われた通り、安全装置は事前に外しておいた。いや、白状しよう。彼女からは、安全装置は、実行の直前に、上手く機を見て外すように言われたのだ。だけど俺は、朝方たまたまトイレに誰もいなかったので、大胆にもこいつを一度ポケットから取り出して、安全装置をガチャリと外して、もう一度ポケットにしまいこんだ。何かの弾みで暴発して、銃口のすぐ近くの俺の心臓がぐちゃぐちゃに弾け飛ぶならばそれも良かろうと、何か賭けをするような気持ちだったのだ。しかしこいつは暴発しないまま、エレベーターは二階を通過した。その間、エレベーターは一度も止まらず、誰も乗り込んでは来なかった。俺は、賭けに勝ったのだ!

エミリに言われた通り、しっかりと両手で銃を支えたのだが、それでも予想以上に発射の反動は大きかった。俺は、エレベーターの扉に背中から叩きつけられた。その時丁度一階に到着して扉が開いたので、俺は危うく転ぶところだった。どうやら俺は上手な射撃者だったらしい。犬飼は、胸の穴から冗談みたいに血飛沫を上げて、尻からへたり込んでいる。もう死んでいるみたいに見える。もしかしたら、心臓が吹き飛んだかもしれない。あれ、心臓があるのは、右だったか?左だったっけ?

女の悲鳴が聞こえた。一階のエレベーターホールには、結構な人数がいた。もう夕方だというのにご苦労なことだ。だけど誰一人、俺に向かって来るやつはいない。当然だ。まだ硝煙の匂いをプンプンさせている銃に近付こうとするやつなんていやしない。エレベーターから降りた瞬間から、やたらと周りが澄んで見える。これまでやたらと視界に入ってきて不快だった他の奴らが気にならなくなり、まるで音楽の中にいるみたいだ。なるほど、これが人間の世界か。本来俺たちが持っているはずで、不当に取り上げられていた世界か。

俺はビルの入り口を出ながら、エミリに電話をかけた。「上手に出来たみたいね」と彼女は言った。そして、約束通りの待ち合わせ場所に来るように、すぐに警察が手を回すだろうから電車は使わないようにと注意した。その時、俺は自分の愚かさにハッとした。もし、この拳銃が暴発して俺の心臓を吹き飛ばしていたら、俺はエミリとの約束を守れなかったじゃないか。俺は、エミリに言われた通りビルの隙間に入って返り血のついたスーツとシャツを脱いだ。シャツの下には、それだけで来ていてもおかしくないような、胸の辺りにマークのついたTシャツを着ていた。幸い、犬飼の汚い血はTシャツにまではついていなかった。同じようにスラックスも脱いだ。この下には、薄い生地のジャージのズボンを履いていた。

振り返ってみると、誰もついて来てはいないようだった。俺は、入って来たのと反対側の隙間から出てタクシーを拾い、エミリとの待ち合わせ場所を言った。

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