【文学論】芥川龍之介 『おぎん』

芥川のおぎん、といわれてピンと来る人は、相当な芥川龍之介フリークと言って差し支えないだろう。彼程の高名な作家であるから、端作であってもたまたま目にするという機会はあり得るが、一見するとよくある殉教小説であり、キリスト教徒を扱った代表作である『俸教人の死』と比べて、強い印象を残す作とは言い難い。

というのも、随分単純な筋だからである。舞台は「元和か 、寛永か 、とにかく遠い昔」で、「天主のおん教を奉ずるものは 、その頃でももう見つかり次第 、火炙りや磔に遇わされていた」という時代である。この冒頭数行で既に、読者は筋の八割までを予測できようというものだ。さすが芥川というべき無駄のない淡々とした描写で、おぎんという早くに両親を失った童女と、彼女に洗礼を与えたジョアン孫七という農夫の家族が、クリスマスの夜に、悪魔の奸計によって役人達に捕らえられ「土の牢に投げこまれた上 、天主のおん教を捨てるように 、いろいろの責苦に遇わされた 」が「水責や火責に遇っても 、彼等の決心は動かなかった 。」顛末が語られて行く。

まあ、何度も見てきたような殉教話である。芥川の筆は人物達の心理的な揺れなどを過剰に描きはしないし、「責苦」の具体的描写もないので、他の作家達がこの種の小説に持たせようと駆使するドラマチックさを最初から放棄してしまっている。この短編からは、全くそういう「意図」が感じられない。

芥川といえば理知の人である。それは、例えば「鋭くって、瑞々しくって叡智に濡れて」と表現した小島政二郎をはじめ、同時代人の多くが証言しているところだ。若くして夏目漱石に発見された早熟の天才。世の中を厳しく見透かす鋭敏な理知は、残された白黒写真のうちの眼光のからも充分に伺われる。

しかし、彼ほどこの「理知」を疑った人もいなかった。精神に異常をきたした母。義兄の自殺による借金苦。関東大震災、神経衰弱。そういう「運命」あるいは「自然」の前に、彼の「理知」は無力であった。人よりも多くその特性に恵まれた彼だけに、そのことはより強く意識されただろう。飽和する理知を、彼は明らかに持て余し、疎ましく感じていた。

彼は三十五歳で自殺したのだし、短編を主とした作家だったから、残された作品の量もそこまで多くはない。全集を通しで読んだとして、毎日少しずつ進めれば一月もあれば読み終えてしまう量である。しかし、それを読む者は、生涯を通じた「理知」との格闘、その無謀な戦いの記録をまざまざと見せつけられることになる。「地獄変」では「美」を、「杜子春」では「悟り」を、「蜘蛛の糸」では「道徳」を持ち出して理知に打ち勝とうとした。しかし、そのどれも上手くいかず、彼は理知に打ち勝つことが出来なかった。彼は過剰に頭でっかちな自分に悩まされ続けた。それでいて、理知は彼の人生において、まるで何の役にもたたなかった。彼は常に「ぼんやりした不安」を抱き続けた。

さて、「眼」が印象的な作家として、もう一人思い浮かぶのが川端康成である。芥川とは明らかに異質の、透徹した輝きを持つギョロっとした目玉である。ここで、私がこの二人の作家を並べることに違和感を覚える人は多いだろう。全く作風の異なる二人である。しかし、肉親の不幸、借金苦など、川端と芥川の生涯には共通するものが多い。生きた時代も重なっている。川端の方が若い世代で親しい付き合いだった訳ではないが、芥川と彼は連れ出って関東大震災直後の街を歩き回ったりしている。

芥川とは対照的に、川端ほど「理知」という言葉が似合わない作家もないだろう。無論、一高ー東京帝大という当時のエリートコースを進んだ彼である。人並みはずれた理知を持ち合わせてはいた。しかし、彼の小説からは、理知の体臭は感じられない。芥川は、理知によって眼前に突きつけられる問いに頭を抱え続けた。つまり、「人生とはなにか」「罪とはなにか」ということだが、川端の小説には、そんなテーマは香りもない。ただ、美のみが志向され、人生の苦悩も、罪の意識も、ただ美の効果を増すための調味料としてのみ存在している。「伊豆の踊子」の踊り子は美の化身としてのみ存在しているし、「美しさと哀しみ」では、罪すらも美の調味料として存在するので、人物達は不要な罪悪感など持たない。

しかし川端が、意図的に「理知」を拭い去った跡は、彼のどの作品からも感じられない。それは何故か。彼が既に「人間的な」悩みから解放されていたからだ。川端が好んで揮毫した言葉に「仏界易入 魔界難入」という言葉がある。「仏界は入り易く、魔界は入り難い(だから人は救われうる)」一休宗純の言葉であるが、川端はそれを自己流に解釈している。つまり、入り易い仏界でなく、敢えて入り難き魔界に進んで行くことこそが、芸術家としての態度であると。仏界とは人の道である。人として正しく生きたものが、正しく生きようとしたものが行き着く先である。反対に魔界とは、人の道から逸れたものが辿り着く場所である。そういう覚悟を持った川端だったから、「人間的苦悩」などは眼中になかった。ただ、魔界という「耽美」の世界だけを目指し続けた。反対に芥川は、仏界に憧れ、そこに近づくために踠き続けた生涯であった。

どちらの道が人として正しいのか、あるいは芸術家として正しいのか。私には答えることが出来ない。それは、遠の昔から、哲学者達が捏ねくり回して結局答えの出なかった問いである。

川端は、あまり芥川の作を評価していなかった。「私は芥川氏を作家としても、文章家としても、さほど尊敬することは出来なかった。」とはっきり書いている。芥川の死後に書かれたものではあるが、先輩作家にて対して余りにも直接的な発言である。しかし、彼は芥川の死の直前の作品についてだけは、「芥川氏の 「末期の眼 」が最もよく感じられて 、狂気に踏み入れた恐しさであった」と感嘆している。それもそのはずである。この小説は、既に死を意識していた芥川が、それ故に俗世的な、仏界的なものから解放され、透明な目線で魔界を見つめた作品だったからである。

話は戻って「おぎん」である。この小説の結末で火炙りの処刑が進められている最中に棄教する。勿論孫七達は驚いた。「おぎん!お前は悪魔にたぶらかされたのか?もう一辛抱しさえすれば、おん主の御顔も拝めるのだぞ 。」とまで言った。しかし、おぎんの決心は揺るがない。ついに彼女は「はらいそ」への昇華を拒否してしまう。その理由を引用する。
「わたしはおん教を捨てました。その訣はふと向うに見える、天蓋のような松の梢に、気のついたせいでございます。あの墓原の松のかげに 、眠っていらっしゃる御両親は、天主のおん教も御存知なし、きっと今頃はいんへるのに、お堕ちになっていらっしゃいましょう。それを今わたし一人、はらいその門にはいったのでは 、どうしても申し訣がありません。わたしはやはり地獄の底へ、御両親の跡を追って参りましょう。どうかお父様やお母様は、ぜすす様やまりや様の御側へお出でなすって下さいまし。その代りおん教を捨てた上は 、わたしも生きては居られません。」

つまり、先に死んだ両親への肉親の情である。彼らはキリスト教を知らずに死んだ。だからこそ、彼女の行こうとせん「はらいそ」に両親はいないはずなのである。彼女は自らの信仰のために、父母を見捨てることが出来なかった。

「さらにまた伝うる所によれば、悪魔はその時大歓喜のあまり、大きい書物に化けながら、夜中刑場に飛んでいたと云う。これもそう無性に喜ぶほど、悪魔の成功だったかどうか、作者は甚だ懐疑的である 。 」
芥川はそう述べて、この短編を結んでいる。狡知によって人を騙し、全く理知的でない方へと招こうとする悪魔。しかしその所業は、案外悪魔の望んだ結果を導くものではなかったかもしれない。少なくともここには、純粋の、おぎんという女の心の美しさがある。

川端は、純粋の美しさを書いた作家であった。私は、彼がこの作品を読んでいたかは知らない。少なくとも私が知る限り、川端がこの作品について書いた文章はない。しかし、もしも読んでいたとすれば、彼の芥川に対する態度は、些か変わっていたと信ずる。

また、芥川自身に対しても、彼にはこういう道もあったのだと感じる。おぎんのように、川端のように、あえて悪魔に騙されて、それによって辿り着くことの出来る美に身を委ねる。そういう可能性もあったのだ。

しかし、芥川は、最後まで理知の人として生き、理知に苦悩して死んでいった。私達には彼の作品を通して、その険しく辛酸に満ちた人生を想うことしか出来ない。

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