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【映画評論】ノーカントリー

※ネタバレを含みます。ご注意下さい。

『ノーカントリー』は、コーエン兄弟が監督を務め、2007年度のアカデミー賞で、監督賞、作品賞、助演男優賞、脚色賞の4部門を獲得した作品である。原題は、『No Country for Old Men』で、日本でのタイトル名では省略されてしまっている「for Old Men」こそが、作品の核心の部分であり、映画は、3人のOld Menを軸に進んでいく。

簡単にあらすじを追うと、若い保安官が拘束した不気味な男が、腕につけられた手錠で、本部へ連絡中の保安官を背後より殺害するところから事件は始まる。その男こそ、「Old Men」の一人で殺し屋の「シガー」である。
場面は変わり、2人目の「Old Men」、ベトナム帰還兵のモスは、テキサスの荒野でマフィア同士の抗争後の現場に遭遇する。死体ばかりの中、辛うじて生きながらえていた1人も、水が欲しいとスペイン語で呟くばかりで、モスの問いかけには答えない。しかしモスは、現場に残されたトラックの荷台に大量の麻薬が積まれているのを発見し、抗争の原因を知る。さらに、少し離れた木陰にも死体を見つけ、その側に置かれていた札束の詰まったブリーフケースを自宅に持ち帰る。その後、結局モスの持ち逃げはマフィアの知るところとなり、彼を始末するために凄腕の殺し屋が派遣される。その殺し屋が先ほどのシガーであった。
危険を察知したモスは、妻を田舎に返し、自らも逃亡の旅に出る。しかし、狡猾な『シリアルキラー』であるシガーの魔の手はすぐ側まで迫っていて・・・というのがストーリーの概要である。
もう1人の「Old Men」のベルは、この事件を担当する保安官で、後半では、モスの妻とも接触し、シガーに追われる彼を何とか保護しようとする。作中何度か彼の『語り』が入り、観客の一番側にいる登場人物と言える。

さて、最初に、日本語題では省略されている「for Old Men」こそが、この作品の核心であると述べた。ポスターを見てもらえれば改めて分かる通り、彼らは皆、ひと昔前の時代の男達である。身体の衰えを感じていて、引退間近という状況の男達が、激しい追走劇・闘争劇を繰り広げるのがこの映画なのである。
原題を直訳すると、『老人達のための国はない』となる。何故、老人達には国がないのか。あえて、『老人達』と強調されていることから、老人達とそれ以外の世代には、国に対しての、或いは国から彼らに対してのスタンスが違うことが分かる。前述の通り、Old Menはそれぞれひと時代前の男達である。その時代の隔りが、もはや彼らを『国』を持たぬ存在にしてしまっている。つまり、彼らのそれぞれが『喪失されたもの』を象徴しているのだ。

では、彼らはそれぞれ何を象徴しているのか。一番分かりやすいのはベルであろう。彼は、一見飄々とした力の抜けた老人にも見えるが、シガーからモスを守るために尽力する根っからの保安官である。結論から言ってしまえば、結局彼はモスを守ることが出来ず、シガーに殺害されてしまう。その後、同じく元保安官であった叔父をモスが訪ねるという意味深なシーンが挿入されており、そこでベルが辞職を考えているということが明らかになる。父親にその理由を尋ねられた彼はこう答える。「力が足りない」と。それに対して叔父は、かつて自宅に押し掛けた悪党によって撃ち殺された大叔父の話をし、最後にこう語る。「何も止められない。変えられると思うのは思い上がりだ」。この大叔父は騎兵隊であった。そして、それを語る叔父は元保安官で、ベルは現職の保安官と、彼らは『正義の守護者』として働いてきた。しかし、大叔父は無残な最期を遂げ、叔父とベルは、自分たちの力では何も変えられないことを悟る。

これはまさに、『世界の警察』であったアメリカが、その力を失墜させ、自信を失っていることに重なる。この映画が公開された以後ではあるが、今やアメリカは、トランプ政権の下で、この『世界の警察』という役割を自ら脱ぎ去り、一国主義的な、閉じた方向へと突き進んでいる。

イラクでもシリアでも、アメリカの介入によって決着をつけることはできなかった。そしてアメリカは、ベルと同じように、自ら「力が足りない」と悩み、世界の問題から手を引こうとしている。まさに保安官を辞職した訳である。

モスが何を象徴しているか。これは少しわかりにくい。だが、重要なのは彼が元ベトナム帰還兵であり、軍事的なテクニックを利用して、何度かはシガーの襲撃を退けるということである。途中、暴走するシガーを殺害すべく派遣された賞金稼ぎが、あっけなくシガーに殺されるのとは対照的である。

そして、これは映画をご覧になれば理解していただけるであろうが、シガーという無慈悲な暗殺者に追われ、傷つき疲弊しながらも、どこかモスは活き活きとしている。シガー撃退用のトラップをホテルの部屋にしかけながら、額に汗をかきつつも彼は、持てる全ての力を発揮する喜びを感じている。冒頭のマフィア抗争跡に遭遇した際、彼はいつもの狩りに出かけていたのだが、狩りでは彼の力の全てを発揮することは出来なかっただろう。年老いてやっと、あるいはベトナム戦争から帰還して以来やっと、彼はその力を存分に発揮する場を手にしたのである。そしてそれを提供したのが彼と同じ「Old Men」であるシガーであることは、もはや現代のアメリカが、このような、全力を発揮しうる場を与えないことを意味している。それは殺し合いの機会が提供されているとかそういう意味ではない。かつては「アメリカンドリーム」に象徴されるような、全力を投じて仕事をし、その分巨大な見返りを見込むという幻想が確かにあった。しかし今やそんな夢は過ぎ去り、いわゆる小市民としての生活を余儀なくされるようになったことの暗示である。そしてモスのような「Old Men」はそのような状況に満足は出来ない。

だからこそ彼は、あえて危険な状況に身を投じることを選択する。現代が提供する「安全な中流階級的な暮らし」には彼の居場所はないのだ。

シガーについては、一言でいうならば「無法者」である。なんのルールにも組織にも縛られず、淡々と殺しを続けていく。彼と対立したものでなくても、存在が彼の邪魔になる者は全て、あっけなく殺されていく。

この映画では、マフィア組織など、悪党が続々登場する。しかし、どの悪党も無法者ではない。刑法は犯しているだろうが、組織の法は順守している。悪事でさえ、ルールに法ったビジネスとして展開されている。そのような中で、シガーは時代遅れの「無法者」としてたった一人で孤独な戦いを続けている。滑稽なのは、彼が「無法者」であり続けるために、自分一人に適用される孤立したルール「約束」に固執している点である。世間のすべてのルールから離脱するためには、誰と共有されてもいない、孤独なルールを守り続けるしかない。

前述の賞金稼ぎに銃を突きつけながら、シガーはこう問う。「お前の従うルールのせいでこうなったのなら ルールは必要か」と、それに対して賞金稼ぎは答える。「これがどれだけ異常か分かってるか?」

しかし、シガーには、なぜ人々が、様々なルールに盲目的に従っていることが「正常」なのか理解できない。そして、彼はずっとその理由を探しているのだ。この男も答えを持ってはいない。そう判断したシガーは賞金稼ぎを撃ち殺す。

そしてシガーは、モスとの電話の中で(賞金稼ぎはすでにモスと接触していて、モスは折り悪く賞金稼ぎ殺害直後の部屋に電話をかけてしまう)、金を返せばモスを殺すだけにするが、返さない場合は彼の妻も探し出して二人とも殺害すると話し、彼に選択を迫る。逆上したモスが電話を切ってしまったことから、二人とも殺害するという「約束」がシガーの中で成立してしまう。そしてモスは殺害され、映画の最後にシガーはモスの妻の元を訪れる。

シガーはもはや、金を返せとは迫らない。それは「約束」に含まれていないからだ。妻は「私を殺しても意味がない」と言い、シガーは「そうだな」と答えながらも、「だが、約束した」と続ける。「私を殺す必要はない」という言葉には、「皆そう言う」と答える。シガーにとって重要なことは、約束の順守であり、その結果としての行為ではない。そこに、シガーと他者との間の、永久に分かり合えない溝が横たわっている。人々には、彼は狂っていると見える。しかし、彼にとっては、唯一守るべきものを守っているだけなのだ。

そして彼は、せめてもの譲歩として、コインの裏表を決めろと妻に迫る。彼女が正しい面を当てられたら殺さないという「約束」である。しかし、彼女は裏表を選ぶことを拒絶し、殺される。殺害の直前、シガーはこう言う。「コインと同じ道を俺は辿った」

何度か繰り返してきたことだが、これがシガーの全てである。彼にとって唯一重要で守るべきものは、彼自身の「約束」であり、その他のルールは彼の約束とは関係のないものであるために無視される。それでは、この「約束」というのはアメリカにとってはなんであろうか。それはイデオロギーであろう。「民主主義」というイデオロギーだ。シガーの生き方に沿えば、アメリカはこのイデオロギーこそ守るべきである。その結果、戦争が起きても人が餓死してもそんなことはどうでもいい。なぜならそれそがアメリカという国が存在するための「約束」だからだ。

アメリカはもはやイデオロギーを頑なに守ろうとはしない。「意味がない」と皆は言い、民主主義に固執するよりも、時にはそれを少し逸脱していても、合理的な判断をすべきというのが現在のアメリカだ。経済的な観点から対立するイデオロギーを持つ国家とも交渉するし、社会を円滑に運営するために多少国民の主権を侵害もする。そういうことに多くの国民は暗黙の同意を与えている。しかし、シガー的な考え方、つまりイデオロギー原理主義的な考え方においてはそれは首肯されない、なぜなら、イデオロギーこそが最も守られるべきものであり、他の「意味ある」物事のために、手を加えてよいものではないからだ。

完璧なイデオロギーなど存在しない。だからこそ、イデオロギーは発生した瞬間に最も純粋な形をとる。その後は、その内在的な問題が次々に発見され、何とか運営していくために修正を繰り返す。だからこそ、シガーのようなイデオロギー原理主義者もまた「Old Men」なのだ。繰り返しになるが完璧なイデオロギーなど存在しない。しかし修正の初期段階では、あたかも「完璧」であるように錯覚していることは出来る。しかし、今のアメリカで、彼らの国家のイデオロギーが唯一正しく守らなければばならないものであるなどと、錯覚出来ている人間はいない。ただ一人、時代遅れのシガーを除いては。

最後の犠牲者であるモスの妻もまた重要な登場人物である。彼女は、シガーのコイントスを拒絶し、「意味がない」と繰り返す。イデオロギー的な判断ではなく、あくまで合理的な判断に依拠しようとする現代のアメリカを象徴している。

また、モスの妻の殺害直後、運転中事故にあったシガーが、偶然出会った子供たちも象徴的である。シガーは折れた腕を補強する簡易的なギブスを作るために、少年の一人にシャツを売ってほしいと持ち掛ける。少年は、「シャツならタダであげるよ」と答えるが、シガーは売ってほしいと固執する。ここでも「シャツを売ってほしい」とはじめに彼が持ち掛けた「約束」を順守しようとする訳である。子供たちは軽く混乱しながらも、シガーから金を受け取り、「人助け代」だと言いながら、その金はシャツを渡した一人のみが貰うべきものなのか、居合わせた全員で分配すべきかの議論を始める。それを背中で聞きながら、シガーはその場を去っていく。

彼らはシガーの「約束」への固執に一瞬戸惑いながらも、次の瞬間にはそれを忘れている。彼らはイデオロギーなど無関係の世代なのだ。果たしてその「約束」に意味があるのか。正当なものなのかなど問いはしない。ただ、彼らの行為の結果として金がもらえたということのみが重要な、完全に「行為」の世代なのである。

イデオロギーは、完璧であるはずのものから、果たしてそれには「意味がある」のかとの問いを受けてその力を減衰させ、最後にはもはや存在を感じさせないものにまでなっていく。傷だらけで去っていくシガーは、消滅寸前のイデオロギーの象徴なのである。

以上、筆者なりに、三人の「Old Men」が何を象徴しているのかについて考察した。そして、この映画が公開された以後のアメリカの動きを見ても、彼らが象徴したような様々なものはどんどん消滅していているように思える。そういったもののの消滅には良い点もあれば悪い点もあろう。一番の問題は、様々な全世代的な象徴の消滅が、その速度を上げていることである。アメリカだけではなく、日本をはじめ世界中で、もはや一つ上の世代の価値観を次の世代が理解しにくいということはいくらでも見られる現象である。それどころか、若者の間では三年程度の年齢の隔たりが、価値観の大きな違いを生み出す。例えば、SNSの発達史等分かりやすいだろう。Twitterを中心に使ってきた世代と、Facebookの世代とでは世界に対する彼らの位置の取り方が全く違うことが分かるだろう。そんな時果たして、一つ上の世代の象徴が以前社会の中で力も持ち続けて下の世代を圧迫するのか。あるいはこの映画のように、もはや不要のものとなり居場所を失っていくのか。いずれにしても社会全体から見れば、その速度を増しているということこそが、知らぬ間に体内で増殖するがん細胞のように、いつしか脅威となりうるものなのだ。

この映画は、そういった問題を、印象的な人物たちをモデルにして、巧みに描いているように思うのである。




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