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はじまりの島旅

竹富島への道のり

竹富島に行くことは私たちの「希望」だった。

グローブをつけた両腕を高らかに掲げる具志堅用高像の両脇に立ち、私たち夫婦は同じポーズで写真を撮った。

石垣島の港からフェリーへと乗り込む。噂には聞いていたが、かなりの速度だ。
4月初旬の沖縄は汗ばむほどに暑く、袖まくりしていたシャツを脱いだ。

大きく口を開け、潮交じりの風を思い切り吸い込む。そんな変顔を動画に撮って爆笑しつつも、気持ちはすっきりと晴れ渡ってはいなかった。
まず、夫の体調が心配だった。これからの生活がどうなるのか目途も立っておらず、旅行などしていてよかったのかという思いが拭いきれない。
爆走する船は、心地よさの中に一抹の不安を感じさせた。

数か月前、夫は13時間にも及ぶ大手術をした。
手術室から出てきた主治医は、明らかに疲労の色が濃く、いつもよりも厳しい表情をしていた。

腫瘍は血管にもおよび、当初、予測した中で一番、悪い状態だったこと。新たに血管のバイパスを作る必要があり、その方法を検討していたため時間がかかったことなどを語った。

ストレッチャーに乗った夫が手術室から出てくる。話しかけても何も反応がない。ただ尋常ではないほどガタガタ震えている。手術後で体が冷えているだけで暖かくしているから大丈夫だと看護師は言った。不安な気持ちを残したまま、ICUに運ばれる夫の姿を見送った。

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本当は沖縄本島に行きたかった。私は沖縄自体が初めてだし、本島の方が見る場所がたくさんある。何もない島で2泊もして面白いのだろうか…。
しかし、そんな懸念は船から降りるとかき消されていった。

ここはテーマパークなの? それともタイムスリップした?

宿までの車に乗り、異次元に来たことを思い知らされる。
サンゴ礁でできた白い砂浜、エメラルドグリーンの海の色。昔の面影を残した赤い屋根の家、いろんな表情をしたシーサー。のんびりと草を食む牛たち、どこを見ても初めての光景ばかりだった。
宿に到着して荷物をおくと、さっそくママチャリを借りて出発した。

南国らしい、原色の花々が咲く道をひた走る。春先なのに太陽が熱い。肌をジリジリと焼きつけていくのがわかる。大きな声でしゃべりかけてくる夫は、振り返るごとに笑っている。その周りを色鮮やかな蝶が舞っていた。

二人で「バスクリン色」と呼んでいる、絵具でしか見たことのないような鮮やかな色の海にも入った。海水は少し冷たく、浸かった足先がくっきり見えるほどに澄んでいる。

疲れたら、島の食堂へと向かう。庭にいくつかのテーブルと椅子が並べられ、巨大な扇風機が回っている。おばあ一人でやっているお店らしく、地元の人が勝手にグラスに水を入れ、食べたものを自分で片づけていた。八重山そばは素朴で、初めて食べたのになぜか懐かしい味がした。

旅に出た理由

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手術から3日後のこと、面会に行くと、看護師からICUを出て元の病室に戻ると言われた。そんなに元気になったのかと喜んでいたが、本人は移動したり、歩いたりするのも苦痛のようで表情が全くなかった。

徐々に食事が出されるようになったのだが、食べると腹に激痛が走る。痛み止めを飲んだり、食事の代わりにドロリとしたドリンクも試したが、夫は激痛にのたうち回った。
私は何をしたらいいのかもわからず、痛がっている夫に「痛いね」「ツライね」とただ声をかけるだけだった。

年内には退院のはずだったが、食事をとることができないため病院で年を越すことになった。年末は家で迎えたいという私たちの望みは打ち砕かれた。そして、入院中のささやかな楽しみである大晦日やお正月の食事も、夫は駄菓子のような薄い味のドリンクと点滴だけだった。

入院期間が1ケ月を過ぎても退院の話は出てこない。
食べることが大好きだった主人が何も口にせず、面会に行っても病室から出ず激痛のためイライラしたり、ふさぎ込むことが多くなった。

自分の無力さを嘆きながら、とぼとぼと一人、部屋に帰る日々。家の中がこんなにも静かだったと初めて知った。まるでシンという音が聞こえてくるほどに、完全な無音だった。

おしゃべりな夫が段々と無口になっていた。そこで、病院内を二人で歩くことにした。上階に入院患者専用の図書室を見つけ、二人で本を眺めていた。夫は一人でも点滴をぶら下げ、図書室に通うようになった。そして、一冊の本を見つけた。沖縄のガイドブックだった。
その時から夫は変わった。

「退院したら沖縄に、竹富島に行こう」

いつ退院できるのか、ましてや旅行などいつになったら行かれるのか分からぬまま、夫は計画を立て始めた。なぜ竹富島なのかも不思議だったが、旅行ガイドとネットを駆使し、旅程を紙に書きだすことに熱中し始めた。次第にお腹が空いたと言い始め、コンビニで買ったキャラメルをこっそり食べるほどまでになっていた。

面会に行くと、病院の廊下を点滴をつけながら猛スピードで歩いている人がいる。
今日はどれくらい歩けたか、おなかの調子はどうだったか、竹富島にはこんなお店がある、次第にいつもの夫の顔に戻ってきた。

それからほどなくして退院の日が決まった。入院から2ヶ月半が経っていた。

水牛

竹富島の名物、水牛車観光もした。
竹富島の歴史や集落の案内をするガイドさんの話を聞きながら、水牛車に揺られゆっくりと進んでいく。

暑くなると、水牛は立ち止まってシャワーをかけるように催促する。また、ガイドさんが三線を弾き始めた途端、トイレタイムが始まったりと笑いを誘う。ブーゲンビリアが咲き誇り、鮮やかな蝶が舞う道をのんびりと進む。三線に合わせて歌う声を聴きながら、ゆったりとした水牛の歩みに身をゆだね、遠い昔の人たちが過ごす一日を体感したような気分になった。

帰り道、自転車で走っていると、どこからか三線を弾く音が聞こえてきた。見ると、軒先でランニング姿の男性が三線をぽろぽろと奏でていた。音程はおぼつかないが、優しい音色だった。

夕食を終えたひと時、暗くなるまで庭で三線を弾く生活。

こんなところで暮らしていれば病気にもならなかったのかもね、そんな言葉がふと口からこぼれた。

竹富島で出会ったもの

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西桟橋という浜から突き出した橋で夕日を見るのがこの島の名物だった。ホテルも日没に合わせて食事をするよう、早めの夕食を勧めてくる。

支度に手間どり、日没時間ギリギリの出発になってしまった。自転車を猛スピードでこぎ、私たちは桟橋をめざした。もうすぐ目的地という所まで行ったとき、木の隙間から夕日が見えた。
燃えたぎる、空一面を覆いつくしたようなオレンジ色。
こんなに大きな夕日を見たことがない。

私たちは大急ぎで橋へと向かった。自転車を止め、坂を駆け下りる。
見たこともない夕日が目の前に広がっている。私たちは吸い込まれるように、橋の先端へと向かった。

雲の動きを追っていた。ただ雲と夕日の動きを見ているだけの時など、いままで一度もなかった。

穏やかな波の音、まぶしいほどのオレンジ色と、薄紫色とが描き出す空の色。頬をなでる暖かな風。同じように桟橋に立って空を眺める人々。

極上の、無限の時間を見つめていた。

波の音だけが静かに聞こえてくる。

夕日を眺めながら、病気が見つかった時のことを思い出していた。
後悔ばかりだった。
あの時、もっとあぁしていれば、こうしていれば。もっと栄養のある食事を作っていれば、仕事のし過ぎだと注意していれば、もっと早く検査をしていれば。もっと早く異変に気がついていれば。

どんなにどんなに悔やんでも、悔やみきれない。後悔は自分を責め、夫を責めて底なし沼のように終わりがなかった。

そんな思いが、そんな後悔が、夕日とともに静かに海に溶け込んでゆく気がした。

日が昇り、日が沈む。
沈みゆく夕日をいつまでも留めておくことができないように、いくらもがいてもどうにも抵抗できないことがある。
私たちにも始まりがあって終わりがある。

大自然の流れの中で生かされていることを知る。
私たちも自然の中の一部なのだと。

隣にはカメラを片手に、満面の笑顔を向ける夫がいた。
夫はそのことを気づかせるために竹富島を選んだのかもしれない、ふとそんな気がした。

眼をつむると、鮮やかなオレンジ色の残像が浮かぶ。

これからもいろんなことが起きるだろう。
しかし、どんなことが起きようともきっと受け入れられるだろう、そう思った。
ゆっくりゆっくりと、沈みゆく夕陽のように静かに。

桟橋から人の姿が消えてゆく。
日が沈んでも私たちはずっと空を見上げていた。
寄せては返す波の音だけが静かに聞こえてくる。私たちは座ってじっと耳を傾けていた。

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羽田空港から続く電車へと乗り、夜空にそびえ立つ高層マンションを眺めていると、竹富島と同じ時空にいることが不思議に思えてくる。

真っ白な砂浜もバスクリン色の海も、風に乗って流れてくる三線の音も、ここにはない。
しかし、私たちはここでやっていかなくてはならない。この先、夫の体がどうなるのか、生活がどうなっていくのか全く分からない。

眼を閉じると、打ち寄せる波の音が、そして三線の音が風に乗って流れてくる。コンビニもスーパーも、信号機もない。何もないはずなのに、竹富島で見つけたものがあった。

夫は黙ったまま、窓から望む無数の明かりを眺めている。

「竹富島は旅の最終形なんだ」そう夫は言っていた。

いや、そうではない、私たちがまた帰ってゆく場所なのだ。
車窓に映る自分の顔は、なんだか清々しかった。私は、夫に向かって言った。

「また竹富島に行こう」

こうして再び、私たちは新しい「希望」を紡ぎ出した。

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