世界の半分は”知らない”でできている!
季節の変わり目で、しかも暑くなったり寒くなったりのこの10月の気候のせいか、今日はちょっと身体に変調があって、軽く危惧を抱いてしまいました。重大な病気だったらどうしよう?というような。
まあ、多分大丈夫だと思いますが。
よく科学的に証明できないようなことを一切認めない、という人がいます。
でも、人は、もともと自分の知らないうちにこの世に生まれ出て、知らないうちにこの世から去っていきます。
そもそもが知らない、という土台の上に人生の全てが乗っているようなものです。
自分が見たり聞いたり知識として蓄えたり、というものは確かなものに思えますが、それと同じくらい不確かなもので満ちていると言っても過言ではありません。
だからこそ、人は科学を使って物の成り立ちを知ろうとしたり、未来を予測しようとしたりに一所懸命になるのでしょう。
でも、どんなに頑張っても、わからないものはわからないままです。
わからないでいることで不安になるよりも、所詮人間は半分は知り得ない世界に生きている、ということをもっと受け入れた方がいいんじゃないか、なんて思います。
まあ、ほぼ、自分に言っているようなものですが。
自分でもどんなものができるかわからない、というやり方で私はガラスに取り組んでいます。
もちろん多少は予想できる範囲でもありますが、最終的な形は手で作らず自然に任せています。
言ってみれば、火山の噴火によってできる火山岩とか、水の流れによって丸くなる石みたいに、じっくり火を当てることで自然にできていく形を大事にしています。
ただし、ただ自然に任せるのではなく、ある程度形を作って、この出っ張りが気に入らない、とかあればそこにまた火を当てたり、下に垂れ下がるような方向に持ち替えたり、ある程度誘導的なことはしています。
自然にできる形と私の美意識で誘導していく部分とが合わさった形が最終的な形になります。
私の作品も半分は”知らない”でできている、というわけです。