ヤンデレとメンヘラの違い
私はヤンデレというジャンルが好きだ。
高らかに宣言するほどのことではないが、ヤンデレが大好きだ。しかし、なぜここまでヤンデレというものに執着があるのか。いまいち言語化できずにいた。これを書くことで、改めてヤンデレを理解するとともに、自己理解を深めてみたい。
まず私は、ヤンデレをどのように定義づけているかを考える。
「相手を好きすぎるがあまり、常軌を逸した行動に出る人。それを厭わない人」。あえて言葉にするとこんなところだろうか。
つまり私は「相手を好きすぎるがあまり、常軌を逸した行動に出る人。それを厭わない人」が大好きだ、というわけである。もはやヤンデレよりも危ない人間じみてきた。
私の勝手な定義だけではなく、ウィキペディアの「ヤンデレ」ページを引用しておく。
ヤンデレとは、キャラクターの形容語の1つ。「病んでる」と「デレ」の合成語であり、広義には、精神的に病んだ状態にありつつ他のキャラクターに愛情を表現する様子を指す。その一方、狭義では好意を持ったキャラクター(「デレ」)が、その好意が強すぎるあまり、精神的に病んだ状態になることを指す。
ヤンデレとは上記のように(1)精神を病んだ者が誰かを愛すること、(2)ある者が誰かを愛するがゆえに精神を病むこと、の二通りを指すようだ。
私の勝手な定義は、後者が近い。前者はいわゆる「メンヘラ」を想像する人も多いのではないだろうか。メンヘラは精神障害・疾患を持つ人を指すネットスラングだが、今回はまた違う定義を付しておきたい。
ヤンデレと銘打った漫画、イラスト、小説、ゲーム、CD……諸々のコンテンツに触れたとき、「これはヤンデレじゃない。メンヘラだ」と勝手に不満に思うことがままある。
そのとき使う「メンヘラ」は、本来のメンヘラの意味を有していない。言葉にするなら、「超身勝手な恋愛体質」だろうか。
整理すれば、私はヤンデレを「好きをこじらせておかしくなった人」、メンヘラを「じぶんをこじらせているうえで恋をする人」と区別しているのだと思う(なにが違うのかをもっと説明たいところだが、今の私には難しい)。
では、なぜ私は「相手を好きすぎるがあまり、常軌を逸した行動に出る人。それを厭わない人」を愛しく思うのだろうか。
「危ない」「気持ち悪い」「おかしい」と感じる人もいるなかで、なぜ私は「愛しい」と感じているのだろうか。
それは、私が「愛情に飢えているから」かもしれない。つまらない答えかもしれないが、じぶん自身に「なぜ?」と繰り返し問うていって、現在見えている底がこれだったのだ。まだまだ掘り下げられるかもしれない。今のところは、以下のような思考で停滞している。
なぜ、ヤンデレが好きなのか。
そこまで他者を好きになって、それを表現できることはすてきなことだと思うから。伝えたら迷惑だろうなどと相手を慮る美徳は、美しいけれども伝わらない。じぶんの立場も相手の立場も倫理も正義も見えなくなるほど溺れて愛しくてじぶんの中だけに留めておけなくなる、そんな好意を寄せられるなんて、これに勝る幸福と興奮はあろうか?と思うから。
なぜ、そんな風に思うのか。
じぶんに向けられる好意を特別で尊いものに感じるから。私のような取り柄のない人間(ここで自己愛の低さにも気づく)に、関心を持ってくれる、周りよりも特別に取り扱ってくれる。小さい女の子がお姫様扱いされたがる気持ちと同じ源泉の欲求かもしれない。
思えば、両親からの強い愛情を受けた記憶がない。心配しながらも自由にさせてくれているのは感じている。冷たい両親などでは一切なかった。ただ、二歳上・下の兄と弟の間に挟まれて育ち、一身に「愛情を受けること」「まなざしを向けられること」に飢えていたのだと思う。最初の特別な長男と最後の特別な末っ子。「妹もお姉ちゃんもできてラッキー」と笑いながら、その場に都合のよい立ち振る舞いをしていた気もする。唯一の女の子だけれど、弟のほうが可愛くて、兄のほうが愛嬌があって、従姉妹たちのほうが女の子らしくて……と、劣等感ばかりの捻くれた子どもだった。
そんなふうに埋もれている何も持たない私を「お前でなければならない」と強く強く言ってくれる人がいたらすてきだなあ、と今日もヤンデレというコンテンツを消費する(消費者に、さも「あなたへの愛をこじらせておかしくなった」ヤンデレに見せるのは、とても難しいだろう。だから、私のいうメンヘラがたくさん生まれがち)。
ここまでつらつらやってみて、強く思うことがある。
私自身が、私の嫌悪する「ヤンデレとは言いがたいメンヘラ」そのものではないか。とりあえず私を受け入れてくれる人にめちゃくちゃに愛されたいと。同族嫌悪をしながら承認欲求を満たされるのを望んでいるのだろうか。
まずい後味だが、そんな未熟な人間であると一つ自己理解が深まったので、無駄な試みではなかったと思いたい。