ボールルームへお邪魔した
「これはだめだ。帰りたい」
入り口でスタッフにもぎってもらったチケットの「東 B列」と、後楽園ホール内の案内板を頼りに東側観客席へ向かう。 入り口から見て右手にあたるので、そちらへ歩みを進めようとした。
どっと人が押し寄せてきた。どっと、というほど人数はいなかったのだが、迫力ある男女数人とすれ違うことになったのだ。ぴっちり肉体にフィットした燕尾服。長い首。鞄を掛けるのが難しそうなほどの撫で肩。個性と彩り豊かなドレス。力強いアイライン。引き締まった広背筋。そんな男女がぞろぞろと東側から出てくる。
選手控え室と同じ通路なのだろうか。同じ日本人だとは思えないほど体格もオーラも違う選手たちに気圧されて猫背になってすれ違いながら、「東 B列」を目指す。
奥へ進むほど、選手で溢れかえっていて人口密度が高い。客席を見つけた。西と東は、即席の雛壇のようだ。席を見つけられたのはいいが、通れそうな道がない。あるのは競技フロアの入退場通路だけだ。ここを通っていいわけがない。けれどほかに通れそうなところもない。
小心者の私は入り口まで引き返した。
勝手がわからないのに来てしまったことを猛省した。『ボールルームへようこそ』では、観客は2階席からフロアを見下ろしていた。だから気軽に出入りができて、なにかつまみながら観戦できる。そんな想定をしていた。
3月18日、後楽園ホールにてダンス競技会が催された。今回はプロB級D級、アマB級D級の試合だった。
試合は9時から21時までと長丁場だが、プロB級の一次予選後にアマB級の一次予選などと、別の級の試合を挟んだプログラムとなっている。プロの間にアマを挟むのは少々酷ではないかと思うが、前者がスタンダードを踊り、後者はラテンアメリカンを踊る。
いわゆる社交ダンスで真っ先にイメージする、燕尾服とドレスを纏う男女の優雅なスタンダードと、露出度の高い衣装を纏う雌雄の情熱的でセクシーなラテンアメリカンでは、まったく雰囲気が異なるのでプロアマ関係なく引き込まれる。
そんな競技ダンスの世界に、『ボールルームへ〜』以外なんの予備知識も持たない私が観客として初めてお邪魔させてもらったのだ。
客席用通路が見つからない問題は、大きなカルチャーショックを残して解決した。さっき見たフロアへの入退場と兼用なのだ。闘うためにフロアへ出たい選手も、それを眺めるために座りたい客も、同じ道を通る。
「選手入場です」の人波に混じって、一般人がいる。途中で逸れて座席を目指す。選手の邪魔にならないかと肝を冷やして自分もなんとか着席した。
プロB級スタンダードの一次予選が始まった。
10組前後のカップルがフロアを目一杯使って踊る。この目で見るまで、『ボールルームへ〜』の迫力ある描写に見劣りして楽しめないのでは、などと失礼極まりない心配をしていた。
そんな余計な心配を吹き飛ばすように、ぶわ、と目の前で風が巻き起こる。顔にドレスが当たって、思わず身体を引く。こんな臨場感、聞いていない。「感」を通り越して臨場している。境目のないフロアと客席。私が脚を前方に放り出してしまえば、選手は引っ掛けて転倒してしまう。そんな距離で目まぐるしく選手が入れ替わりフロアを回転する。
彼らは涼しい顔をして風を起こして去っていく。だから、熱気で包まれているはずの会場はずっと涼しい。
客席は私の母よりもさらに年上の女性が多い。杖をついて客席へあがる人もちらほらいる。
しかし、選手は同い年くらいであろう人も少なくない。
競技ダンスをしている人たちはこんなにいるのに、私の日常には接点がなかったのかと、なんだか不思議な気分だった。ようやく一人、二人と競技ダンス経験者に出会ってこの試合を観ているわけだが。
月並みな感想だが、おもしろかった。
会場へ足を運ぶというリアル体験は、入ってくる情報量が途轍もなく多い。リーダー(男性)のしゃんと伸びた背筋、パートナー(女性)のぴんと張ったままの指先。絶妙に噛み合った足運び、アイコンタクト。フロアの空きを見つける視野、避けきれずに起きる衝突。微かに震えている握り合った手。目の前を過ぎたパートナーの香水の匂い。すべてを出し切ったという満足気な表情。
私はこんなに何かに夢中になっているだろうか。選手たちの熱気にあてられて、自分の夢への小さな前進を始めた次第。