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日本社会で安楽死・尊厳死はアリかナシか⁉
こんにちは。
ベルリン在住の向日葵猫です。
今回はかなりディープなトピックですが、安楽死や尊厳死のことについて触れたいと思います。
昨年7月くらいにニュースになりましたが、
京都府でALSで苦しんでいる女性患者が安楽死を望み、医師2人が嘱託殺人で逮捕されてしまったという悲しい事件がありました。
この事件を受けて安楽死や尊厳死の是非について再燃しましたが、いまだにこの安楽死・尊厳死については議論や法整備などはされていないようです。
昔は「死」について考えることがタブーとされ、特に自殺の意思を口にすると根性がないと暴力を受けるのが当たり前だったせいなのか、日本はどうも「死」について議論することを避けがちなようです。
私は「生死」は人間を含むどの生き物にもついてまわることだからこそ「生きること」だけでなく「死ぬこと」にもきちんと目を向けて考えるべきだと思っています。自分の「生死」について考えることは、自分の人生に向き合っていることに他ならないので、「生」も「死」も見ぬふりをするということは自分の人生を真剣に考えていないのと同じことになってしまうということになります。
ここからは、私が安楽死や尊厳死に対して持っている考えなどを述べていきます。
安楽死・尊厳死の賛否
私自身は安楽死・尊厳死には賛成しており、人間の「生死」については本人が自分の意思で決められるようにすべきだと考えています。
ただし、いざ法律で合法にする場合は国の慣習も考慮したうえで慎重に行うべきだと思っています。
理由① 生き地獄に陥れるのは残忍極まりない
以前に、多系統萎縮症で苦しむ女性の尊厳死に関するドキュメンタリーを見たことがありますが、この女性は仕事でバリバリ活躍していた独立独歩的な人でした。ある日、多系統萎縮症を患って日に日に症状は悪化し、仕事だけでなく食事や排せつなど今まで普通にできていたことがどんどんできなくなり、家族や周りの人にサポートをしてもらわないと生きられない状態になってしまいました。徐々に言うことを聞かなくなる自分の体だけでなく、周りの人間に頼らざるをえない生活を強いられることは、自立心の強かった彼女にとっては屈辱を極めるものでした。彼女は闘病中に何度も自殺未遂を繰り返し、日本では尊厳死を認められていないことからスイスで尊厳死をすることを選び、家族に看取られながら安楽死に至りました。
病気の症例からもわかるように、この女性は自分の体が言うことを聞かなくなるにつれて肉体的にも精神的にも追い詰められていき、生き地獄が続いているのは手に取るようにわかります。それでも、彼女に生きるべき、生きなければいけないと言えるでしょうか。私なら言えません。この状況であれば「死」を選べないようにするのは、彼女を地獄に引き戻しているのと同じです。前述したALSで苦しんでいた女性にも同じことが言えるのではないでしょうか。本当に地獄のような苦しみを死ぬまで味わい続けなければならない人に「生きる」ことを強制するのは残忍すぎると思っています。
理由② 「死」と向き合うことで「生」に変わることがある
これは尊厳死が合法であるベルギーであった話ですが、ある若い女性が常に死ぬことばかり考え、毎日のように自傷行為をして自分の体を傷つけていました。家庭環境や友人関係など彼女の環境にはとりわけ問題はないのに、彼女は自分の命を肯定できず、生きることに対して絶望を感じていたようでした。その心理状態は時間がたっても変わることはなく、彼女は尊厳死を遂行しようと決意しました。ベルギーの尊厳死では注射と飲み薬の2択がありましたが、彼女は注射の方法を選択し、決行時刻を決めて自ら「死」を選ぶことにしました。担当医師からは「生きたいと思ったらいつでも止めていいからね。」と伝えられていましたが、ついに安楽死の決行時刻を迎えました。しかし、彼女は死ぬことができず、日常的に希死念慮がよぎる自分自身と向き合って生きていくことを選びました。
このケースのように、一度きちんと「死」と向き合うことで、「死ぬ」ことで「どういうことが起こるのか」や「失ってしまうもの」を考えるようになります。むしろ、きちんと「死」と向き合ってそれが現実化しそうだったからこそ、「死」によって起こることがより鮮明になって、踏みとどまるきっかけになってくれます。
日本の風潮と安楽死の法制度化
私自身は安楽死・尊厳死については賛同していますが、日本で合法化する場合はかなり慎重に行うべきだと考えています。日本の風潮や社会事情の観点から見て、安易な法制度化は大変危険です。
理由① 日本の過重労働・ハラスメント等による精神病・自死問題
「Karoshi」という言葉で外来語化してしまうほど、日本の労働問題は世界から大バッシングを受けています。今昔問わず「社畜」という言葉がまかり通るほどですし、高橋まつりさんの電通事件が公になっても過労死・過労自死は一向に減らないほど、日本の労働問題は深刻です。
この深刻な労働問題が原因で命を奪われる人が後を絶ちません。電車の人身事故・飛び降り・首つり・練炭など方法は様々ですが、仕事や人間関係が原因で自ら人生を終えてしまう風潮が日本では完全に根付いてしまっています。
また、仕事が原因で「鬱病」などの心の病になってしまう人も後を絶たず、精神科や心療内科などは数カ月予約待ちなのが常習化しているほど、仕事で病むのが社会常識のように当たり前になってしまっています。
この地獄のような風潮が根付いている日本で安楽死・尊厳死を合法化するとどうなるでしょう。「今の苦しみから楽な形で解放されるなら…」という思いで、「死」によるマイナスな面ときちんと向き合わずに安易に人生を終えてしまうのが目に見えています。そうなると、今以上に安易な気持ちで「死」を選ぶ人が増え、自死問題がより深刻化するでしょう。それで、命が軽いものとして扱われるようになってしまいます。ドライな見方にはなりますが、日本をリードしていく戦力になる庶民が激減し、労働力だけでなく税金や社会福祉費を負担する人もいなくなることになりますので、国が破綻してしまいます。
理由② 日本の異常な同調圧力と迷惑文化
日本は「みんな同じだと安心する」とか「周りと違うことが怖い」といった同調圧力が強く根付いています。この同調圧力が原因で、物事の善悪が完全に無視されて無分別化してしまうことがよくあります。また、千差万別と判断されることでさえ、周りと違うから異常者という目線を向けたり、後ろ指をさすようなこともあります。例えば、先ほど挙げた過重労働の問題で考えてみると、「みんなそれだけ働くのが当たり前なんだから、そこに文句を言うのは甘えだよ」とか「みんなも同じように一生懸命頑張っているんだから、あなたも一生懸命にならないとだめだよ」とか言われたことはありませんか。他にも、学校生活(特に部活動)でいえば、「部活動をやらないなんて怠けている」とか「みんな部活動で一生懸命なのに、なんであなたはそうじゃないの」とか言われ、別のところで努力をしていたとしてもその努力を認められずに周りと違うことをしているという理由で非難されたことはありませんか。おそらく、こういう事例に当てはまる人は多いと思います。
さらに、日本には迷惑文化も強く根付いています。私が中学生のときの道徳の授業で「迷惑」についての話を読んだときに、こんな質問がありました。「自分の子供にどんな人になってほしいか」という問いに対して、「人に迷惑をかけない人になってほしい」と答えた人が多くいたようでした。今思うと、愚の骨頂としか言いようがない回答だったと思います。人々は迷惑とは何なのかをきちんと理解せず、迷惑と判断される基準を間違えている人がたくさんいます。そもそも、迷惑というのは「相手に手間や負担をかける」ことを指し、その手間や負担は多義にわたります。例えば、市役所で転出届や転居届などの手続きをするときに職員にかける手間、公共交通機関で席を譲ってくれた人に対してかけた負担、ミスをしてしまったことで他の人にかけてしまった負担など、挙げたらきりがないでしょう。また、人間とはお互いに迷惑をかけあいながら生きているもので、迷惑をかけないで生きること自体が不可能です。しかし、そのことをきちんと理解して肝に銘じずに「迷惑」を語っている人が山のようにいます。
このような個性を認めない同調圧力や迷惑の正体を弁えない迷惑文化が深く根付いているため、日本で尊厳死の合法化を行うと道徳性のないおかしな慣習を生み出すことになるでしょう。もし安楽死や尊厳死が法制度化された日本社会で、ALSを含む不治の病や重病を患ってしまったり、鬱病や適応障害などの心の病になってしまったら、このような言葉が苦しんでいる人に対して飛び交うようになってしまうのではないでしょうか。
「そういう病気になったら、みんな人生を終わらせる選択肢をとっているから、あなたも同じようにしないとね」
「不治の病や精神病になったら、周りの迷惑を考えて安楽死や尊厳死を選ぶのが普通ですよ」
病人や苦しんでいる人の命や心を完全無視し、同調圧力や迷惑文化を基軸とした倫理観のない言葉が常套句になってしまうでしょう。また、「不治の病や精神病などになる=死ぬべきである」という人権侵害のような考えが常識化してしまう可能性が高いです。
安楽死・尊厳死を合法化する際に大切なこと
当たり前のことですが、私たち人間が道徳心を養うことが必要不可欠になります。「命の終焉は、本人の意思や気持ちに基づいて決められる」ことが大前提で、他人が死ぬことを唆してはいけないと各々がきちんと肝に銘じておくのが大事なことです。
法制度化をする際には、同調圧力や迷惑文化による弊害を考慮したうえで条項を定めて、他人による悪質な死の示唆があった場合には厳しい罰則を科せるようにすべきです。
これら以外にも大切なことはあるかもしれませんが、少なくとも上記の2つは必要不可欠だと考えています。