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死にたいけどヤンニョムチキンは食べたい私が、どうしてわざわざネットにそんなことを書くのかという話を、近況と共に記していく
どうも、無職だよ。時間に少しばかり余裕ができた。だから、ゲーム実況とか趣味のことを色々やりたい。しかし咳喘息が治らなくてそれどころじゃない。治したいな。こんな長引くとは思わなかった。嘔吐を伴う咳の頻度は減って、夜中嘔吐で飛び起きることはここ数日なくなったので、ぼちぼち良くなっていってると思う。
呼吸器内科の主治医曰く「最強の薬を出してるんで!」……最強というワードの、ある意味医者らしからぬ、抽象さ加減にウケてしまった。毎日、吸入薬を吸うたびに思い出す。私は今から最強の薬を体内に入れるんだ、と。
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「デコり」たい。
吸入薬で変身する主人公のギャグ漫画、誰か描いて
ところで最近、ちょいちょい作ったことない料理を作るというのに挑戦している。実家にいる間、週3日、火木土と私が夕飯を担当する日を設けることにした。体調や予定の不都合で作れないな、という日は、その日の午前中に言うシステム。こういう風に決めてみたはいいけど、うまくいくかは不明。色々模索する。
朝より夜の方が体調が比較的マシなことが多い上、夕飯の支度をすることで家族の役に立つのであれば、無職で脛齧りをする心苦しさも幾分かマシになる。これと合わせて洗濯はなるべく毎日やるようにする。
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クラシルさんのレシピ参考
咳喘息の治療をしつつ、今後の人生をぼちぼち考える必要がある。そのために、1ヶ月後また呼吸器内科に行く。2月には予約している精神科に行く。これから体調が良くなるかわからない。楽しめるようになるのかわからない。苦しい。死にたいけどヤンニョムチキンは食べたい。
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『死にたいけどトッポッキは食べたい』、おそらく4年くらい前に買った本。この本は「気分変調障害(ひどい憂鬱症状を見せる主要憂鬱障害とは違い、軽い憂鬱症状が続く状態)」に罹患した著者の治療記録をまとめたエッセイ。久しぶりに少し読んだ。その際、『はじめに』に記載された、病気や自分の内心を公開することのスタンスについて共感したため、一部引用する。
どうして人は、自分がどういう状態にあるのかを素直にさらけ出さないのだろう? つらすぎて、そんな気力も残っていないのだろうか? 私はいつも得体のしれない乾きを覚え、自分によく似た人からの共感を求めていた。そして、そういう人たちを探して彷徨うよりも、私自身がそういう人になってみようと思った。ほら、私、ここにいるよと、力いっぱい手を振ってみようと思ったのだ。誰かが自分とよく似た私のサインをキャッチして、こっちに来て一緒に安心できたらいいなと思う。
私は、心身の不調を今回のnoteのように割と赤裸々に公開している。別のところでは、ADHD的症状があって、一応診断を受けていることも書いている。それについて以前フォロワーの方とお話している時に、病気・障害を公開している理由ってありますか? といった趣旨の質問をいただいた。今日はそれの回答となる文章を作っていこうと思う。
さて、どうしてわざわざ公開しているんだ……最初から強い意志を持って公開しよう、と思っていたわけではなく、気づいたらこうなっていた、というのが私自身の状況としては一番正しい言葉になる。ただ、この本を久しぶりに手に取って読んだ時、あ、似たような感情で、インターネット上に状況を書き連ねているな、と気づいた。
公開することに大きすぎるリスクがあることは、こんなナリをしているが、ある程度は理解している。例えば……私自身の良くない過去や未来の言動により、ADHDという障害そのもののイメージを悪くする可能性だとか、障害をクローズドにしている環境で知り合った人物にアカウントがバレてしまった時のリスクだとか。挙げ出したらきりがない。
それでも、話してしまった方が楽になれると判断して書いている。私のこの部分を話さないのは、どうしても、何を話すにしても嘘になる。
インターネット上の、壁打ちの場所……ブログという環境であれば「見たくない人は離れてくださいね」とこちらから予防線を張った上で、自分語りを勝手にしてる分には犯罪でもマナー違反でもない、と自分に言い聞かせている。
それで不快になった人がいたとて、あ、私というコンテンツはnot for youなんですね、ごめんね、離れてね、で良い。(※これは、一度こちらへ寄ってきてくれたひとがその後離れていくのはやっぱりちょっと悲しくて寂しい、と思ってしまう自分へ言い聞かせるための文言です。)
愚痴っぽい暗いブログなんか面白くないから書かないでよ、と仲良くしている人に言われたことがあった。その時は、まあ明るいコンテンツの方がそりゃあ読んでて楽しいよなぁと思ったから、肯定した。しかし今なら「あなたのために書いているnoteではないからね」と言える。いや、面と向かっては言えないし、やっぱり明るい文章書きたいな、と思う自分もいるから……ここは難しいね。
とにかく、書かなきゃやっていけない時がある。全てを理解してくれとは言えないし、今回の文章をその人に読め! と強要することはないけど、私は私のために、これを読んでくれる人がいたら嬉しいと思って書く。
「よく似た人」からの共感を少しでも得られたら、やっぱり、書いてよかったな、と嬉しくなる。実際に私と同じようにADHDを公開している小説家さんと仲良くなって文学フリマで合同エッセイ本出したりね、そういう縁もあったわけだし。
逆に、私と似た人でなくても、私のことを知ってくれていて、少しでもプラスの感情を持ってくれている人に……あの、私はこういう人間なんですけど、イケます? とそっと説明書を渡す感じで、読んでもらいたいなと思っている。あの、いつでも返品OKです。
とはいえ、「ADHD的症状があるという事実」を、決して人を不快にさせる・人に迷惑をかけることの免罪符にしてはならないと感じている。どうしてもこの症状の特性上、私の言動は側から見て甘え、惰性、努力不足に見える。私自身がそれはすごく理解していて、申し訳なく思う。
ただ最近、仲良くしている友人に「らん数ちゃんは最初から自分のできないことをオープンにするところが、良い!! どう接したら良いかわかりやすいし!! 後出しより絶対良い!!」と言われた。
この友人にとって、私の今の全部を公開するスタンスは、自分が思うほど「免罪符」として捉えられていないんだ、少なくとも私が大事にしたい交友関係を継続させるための行動としては、間違っていなかったんだ、と嬉しくなった。
私は自分の特性が上手に言語化できていなかった時代、今以上にとにかく沢山の失敗をした。当時大事にしようと思っていた縁も失い、結果的に過去の自分が丸ごと嫌いになって、今度は殆ど自ら縁を切ってしまった。
そういう過去に比べたら、私個人としては、やっぱり……メンヘラだと揶揄されてしまうことがあっても(ありがたいことに今は別にないけど、私の中の良くないところが私自身を非難するんだよな)、なるべく情けないところも、苦しい感情も曝け出して、その上で人と交友関係を築く方が、すごく、楽だ〜〜〜!!! というノリで、インターネットでもやらせてもろてます。……これ回答になってるのか!?
自分、理解してくれる人たちの善意に甘えすぎちゃいけないよ……という自戒の独り言をぼそぼそと呟きながら、見てくれ!! 私はここにいるぜ!!! とあなたに向けて、今日も大きく、手を振っています。